徒党・強訴とは「何事によらず、よろしからざる事に、百姓大勢申し合せ候を徒党ととなえ、徒党してしいて願い事を企つるを強訴といい、或は申し合せて村方立退(の)き候を逃散(ちようさん)と申す」(高札および天保一二年五人組帳一〇一)。
寛政五年(一七九三)七月に、田安家から徒党・強訴のいましめを布達したのは次のような事情による。
寛延三年(一七五〇)七月一九日、甲州八代郡高家(こうか)村(八代町)で、八代郡一六か村と山梨郡の村々から打って出た二万人の百姓が一揆を起した。これが米倉騒動である。この一揆は間もなく鎮圧されたが、この騒動から四〇年ほど経た寛政四年一二月に、またもや一揆が起った。これを太枡(ふとます)騒動という。同じ東郡を舞台に、領主田安家の収奪強化に抵抗した領内五四か村の農民が一揆に立上った。その原因は、代官所手代の山下治助が、新枡を使用して年貢を取立てたことがきっかけであった。新しい一斗枡の容量が実は一斗一升だとして、その不正を農民は糺弾したのだが、不正枡だけが原因ではなかった。検見のさい、上出来の場所だけ竿を入れたり、植えつけてない田畑を見分しながら、少しもその分を引いてないなどのため、百姓の困窮が増大したためでもあった。
長百姓(おさびゃくしょう)(組頭)の三人が発頭人となり、各村の名主、長百姓が密議を重ね、一二月二六日、代表者二一名が寺社奉行立花出雲守に越訴(おっそ)し、次いで翌年二月六日、五名の代表が老中松平越中守へ駕籠訴(かごそ)を決行した。
首謀者八名のうち四人牢死・二人獄門・一人遠島・一人重追放となり、参加した村役人や小前百姓への過料は広範囲に及んだ。一方、山下治助は追放となり、新枡使用は廃止された。(『すねおり・じかたもんじょ』・『山梨県の歴史』)
寛政五年八月の御触書は、「徒党・強訴のいましめ」として、騒動の原因は一方的に百姓の不逞(ふてい)にあるとして、極刑を羅列して、威嚇を加えたものであり、領主・代官が自らの反省に立つ撫民ではない。甲州では、その後も甲斐一国を騒動のるつぼと化した大打ちこわしが、天保の郡内騒動となり、明治二年には財政逼迫のため崩壊寸前の状況にあった田安領で、非政内容を列挙する「田安領御免」の嘆願が、蜂起寸前の事態となったが、田安家の自発的領地返上によって鎮静した。
田安家の領地統治は、領主不在で、代官任せの過酷な搾取や暴政が、騒動や一揆の基本的原因である。