天保一三年(一八四二)五月に御取締出御役の中村仁右衛門の名で布達されたこの御触は、天保一二年から始まった天保改革の、その後の本格的な取締りを予告するものである。これを手始めに、農村向けの法令は、堰を切ったように次々に触れ出されていった。農民の間には「三日法度」という言葉があり、お上の法令だって、どうせ三日たてば死文になるのだという権力軽侮の風潮があった。それだけに幕府は必死になって、幕領だけでなく私領にも広く通達して、法令の趣旨を徹底させようとしたのである。
天保改革とは、十二代将軍家慶(いえよし)の天保一二年五月から、水野越前守を老中首座として行った改革で、享保・寛政の改革ととも三大改革といわれる。前代将軍家斉(いえなり)の大御所時代は江戸文化が最も栄えたが、一方、大飢饉や百姓一揆の頻発で、徳川幕府の基礎は崩壊のきざしを濃くしていた時代であった。