天保元年(一八三〇)から翌年にかけてひどい気候不順がつづき、多雨と旱魃(かんばつ)が交互に襲った。その上に虫害も加わって全国的な大飢饉となった。享保一七年(蝗害)・天明二~七年(冷害)、これにつづく天保大飢饉は、全国的な規模で発生し、しかも災害が大きかったので、近世の三大飢饉といわれる。
四年には低温多雨で、関東でも大暴風雨や冷害や洪水に見舞われて、作柄は三分ないし七分作の大凶作となった。米が値上りし、各地で棄子や行き倒れがあり、騒動が起った。つづく五年・六年も連年不作で米価が騰貴した。七年になると、いよいよ大詰めにきて、天候不順と冷害、再三に及ぶ暴風雨などのため、全国平均の作柄が四分という、江戸末期の記録的な大飢饉となった。ことに津軽藩では、九割一分の大減収で、餓死者は四万五千余人を数えた。そのため、日本全国の田畑は荒れはてて、米価を中心とする物価の値上りを招き、農村からの流れ者や行倒れがやまず、江戸では打こわしこそなかったものの、その悲惨さは天明の大飢饉にも劣らなかったという。この時、中国筋では蔦(つた)や魚の骨まで食べたが、これはほんの一例であって、全国の町や村では、食糧が底をついたため、離村・行倒れ・餓死者が続出し更には人肉を食うという極限の状況にまで達した。
武蔵国でも、天保五年は夏から秋にかけて、いっこうに雨が降らず、ひどい日照りがつづいた。そのため旱魃・減収・飢饉の年であった。天保七年は四月から雨の降る日が多く、ついに八月一日(八朔の日)には大暴風雨が吹き荒れて、この年は風水害のための飢饉がつづいた。(斎藤月岑幸成『武江年表』)
当町内には天保飢饉の記録は残っていないが、年貢割付状や皆済目録でその片鱗を窺(うかが)うことができる。
脚折村では、天保六年の皆済目録に「去る天保四年の御貸米返済」のため、米一四五俵(四斗入)の年貢米の他に、一〇俵を加えて上納している。また、天保七年の皆済目録には、年貢一四五俵のところ、「当年不作につき、来る申(さる)まで御貸付」として一五俵を減じ一三五俵を上納している。いずれも減免ではなく貸付となっているところをみると、どれだけ貧農救済の効果をあげたか分らないが、天保四年と七年が凶作であったことを示している。
なお、天明二年から漫性化した飢饉が、ついに七年に至って「天下大いに飢う」といわれた天明七年の大飢饉について、当町内に残るわずかな記録を調べてみよう。
天明四年の田安領皆済目録には、
天明四年 高三九石一斗四升六合六勺
米一〇石四斗六升二合
本途(本税)
永一八貫三八七文
天明七年 同 本途 米三石三斗四升一合
永一八貫三八七文
天明八年 同 本途 米二七石〇〇五合
永一八貫三八七文
それで天明八年には正常に戻った本途を上納したことになる。七年の大飢饉は「天下大いに飢う」といわれる通り、当町内でも大凶作で、一割しか米納ができなかったことを知らせるのである。
次に高倉村の場合、天明六年の割付を見ると、当午(うま)(六年)より未(み)(七年)まで二か年定免のところ、当午は水損につき破免し、検見によって年貢を定めるとしてある。そして、水田八町一反五畝一〇歩のうち三町三反二畝二四歩は、水腐(みずくさり)・青立(あおだち)(※註1)となり収穫皆無のため、当引(※註2)となっている。)
〔註〕
(1) 青立 水害・旱害などのために、稲が実る時期になっても穂が出ないこと
(2) 当引 一作引ともいう。水旱害のため、収穫皆無となった田畑の年貢を当年だけ免除すること
五味ケ谷村では具体的に被害の状況を記録している。天明六年一〇月の「内見(ないみ)合附帳」によると、
二町四反二四歩 無
一町九反九畝二〇歩 青立無
四町五反一畝二〇歩 皆無
一反四畝一三歩 畑成
一六歩 定引
計九町七畝三歩
水田総面積一二町二反九畝四歩のうち、九町七畝三歩が収穫皆無で、残りの三町二反二畝一歩についても、坪刈りの結果は、最高籾三合、最低五勺の収穫となっている。これが平年作では上田一升七合・中下田一升三合・下々田一升の反取りであるから、最高六分の一、最低二〇分の一の収穫となるわけである。
天明三年(一七八三)七月七日に浅間山が大噴火し、群馬県を中心として埋没・流出した家屋は一、八〇〇戸、死者は約二、〇〇〇人(一説に三五、〇〇〇人)に達し、碓氷(うすい)峠では火山灰が五尺(一五一センチ)も積もって、軒端(のきば)に届いたくらいであった。鴻巣・熊谷では約二寸(六センチ)、江戸でも約一寸(三センチ)積もり、深谷では午後一時頃から暗くなって手探りで歩いたという。上空高く噴き上げられた極めて微少な浮石(軽石)塵は数年の間上空を浮遊した。そのため太陽からの光熱をさえぎって日照が減少し、農作物の成熟を妨げた。これが天明大飢饉の災害を一そう増大させたのであった。
天明四年は冷害のため諸国大飢饉となった。四月には飢民街路に充ち、餓死者は四散して倒れても、肉親の者も救うことができない。幕府もまた救済手段がない。江戸でも餓死する者がある。一二月になると米価暴騰して餓死者多く、その上、秋から疫病が流行して死者一〇万人。奥羽地方はことに悲惨であった。
天明五年には、諸国旱魃で、東北は長雨。一〇月には東北飢饉となる。
天明六年、五月から長雨で、七月一一日から関東は古今未曾有の大洪水となり、利根川沿いの草加・越谷・粕壁・栗橋の宿場まで一面浸水した。農民の被害は甚大であった。諸国大凶作、収穫わずか三分の一という飢饉であった。
天明七年には、飢饉と物価騰貴のため、大坂・江戸その他各地で打ちこわしが行われた。
以上は、天保大飢饉に先立つこと四七年前起った天明七年(一七八九)の大飢饉について、当町に残るわずかな資料をもとにして、その概況を述べた。