天保期は、徳川幕府の全時代を通じて、百姓一揆や打ちこわしが、幕末の慶応期に次いで、第二のピークをなしている(表―40)。しかし天保期といっても万遍なく、毎年平均していつも発生しているわけではない。天保時代といえば、江戸時代の三大飢饉の一つとしての「天保の飢饉」や、また幕府の三大改革の一つとして有名な「天保の改革」を想起するように、それらと関連して、ある年間に集中して発生する傾向があると思われる。つまり、飢饉の烈しい天保四、五年と、七、八年をピークとして、その後いくらか増減はあるが、政治革新の影響を受けた一三、四年にもう一つのピークがあった。
表4-40 10年ごと年平均件数表およびグフラ |
年代 | 百姓一揆 | 都市騒擾 | 村方騒動 |
1590~1600 | 3.1 | - | - |
1601~ 10 | 4.1 | - | - |
1611~ 20 | 6.5 | - | 1.0 |
1621~ 30 | 5.8 | - | 2.0 |
1631~ 40 | 3.3 | 0.5 | 2.7 |
1641~ 50 | 3.6 | 0.1 | 1.0 |
1651~ 60 | 3.6 | - | 1.9 |
1661~ 70 | 5.4 | 0.1 | 2.9 |
1671~ 80 | 5.8 | 0.4 | 3.7 |
1681~ 90 | 5.5 | 0.2 | 6.4 |
1691~1700 | 5.4 | 0.2 | 4.6 |
1701~ 10 | 6.9 | 0.3 | 5.5 |
1711~ 20 | 9.1 | 0.6 | 7.0 |
1721~ 30 | 8.2 | 0.4 | 7.1 |
1731~ 40 | 11.3 | 2.1 | 8.1 |
1741~ 50 | 14.7 | 0.9 | 7.8 |
1751~ 60 | 12.2 | 1.6 | 7.6 |
1761~ 70 | 9.8 | 2.0 | 9.0 |
1771~ 80 | 8.4 | 1.4 | 12.0 |
1781~ 90 | 25.7 | 10.5 | 13.9 |
1791~1800 | 11.8 | 1.2 | 15.5 |
1801~ 10 | 11.0 | 1.1 | 16.9 |
1811~ 20 | 17.4 | 0.8 | 20.8 |
1821~ 30 | 17.5 | 3.7 | 23.9 |
1831~ 40 | 35.3 | 8.9 | 33.9 |
1841~ 50 | 14.5 | 2.1 | 30.6 |
1851~ 60 | 18.3 | 2.9 | 33.5 |
1861~ 70 | 33.7 | 9.1 | 33.7 |
1668~ 77 | 49.9 | 2.4 | 15.1 |
青木虹二「百姓一揆総合年表」より
なお、天保年間の百姓一揆の件数を、天明・慶応の件数と比較して、次に示すことにしよう。
天明年間(八年) 一四七件 一年平均件数 一八・三七
天保年間(一四年) 二一五件 〃 一五・三五
慶応年間(三年) 七五件 〃 二五・〇〇
一揆の原因は先ず天候不順による凶作のために生じた米不足と、そのために暴騰した米価である。日頃、粒々辛苦して働いたにもかかわらず、どうしても生活が楽にならず、こんな苦労をしなければならないだろう。これまでは農民の要求を通す手続きは、農民代表による訴願の形でやってきた。しかし、それはしばしば裏切られたにもかかわらず、農民たちの幕府や領主への信頼感を前提にしたものであった。この度の一揆参加者は、飢饉のような悲惨な状況に人々が陥るまで人々を苦しめ、その上、ろくな救済もせずに手をこまぬいている政治の在り方に対して、不信をつのらせ、もはや打ちこわしによってしか、政治を変えることはできないと信じたからであろう。
一揆を起すほど、怨むこと飢饉も天地の一つの御道具なり。その故は、この前のききん(天明飢饉)の年より政事にて改まざることが、みな改りたりという。(山田三川『三川雑記』)
以上、文政一三年(一八三〇)に始まり、天保四年(一八三三)の大飢饉をはさんで、関東・奥州から全国に拡大した慢性飢饉は、天保七年(一八三六)には最悪の事態に至った。この年には、農村や都市の一揆・村方騒動・都市騒擾も最多の件数を示した。
このさい、幕府にとっての緊急課題は
一、窮乏した幕府の財政を立直し、一揆の抵抗を抑えて、弱体化した幕府を再興すること
二、幕府の鎖国体制が諸外国の圧力によって動揺し始めたことに対する海防問題の解決
このような難題を抱えて、天保一二年将軍家斉(いえなり)は死亡した。家慶(いえよし)が一二代将軍になると、早速、華美と退廃に充ちた大御所政治の流れを変えるための第一歩を踏み出した。
ここに天保改革の責任者として登場したのが家慶の信任あつい水野忠邦であった。忠邦は将軍に呈出した上書のなかで、次のように自分の決意を語っている。
文政期この方、都市の奢侈は極まった感があり、病気でいえば慢性化した難病のようなものである。このさい劇薬を用いて根本的な治療を加えないと命取りになる。その荒療治によって世態は一変し、今後三、四十年はもつであろう。たとえそれによって、城下が一時衰微し、商人が離散することがあっても止むを得ない。
このような不退転の決意の下で、天保一三年(一八四二)五月御取締出御役の中村仁右衛門の名で、御触れが布達されたのである。
御請証文の初めには、次の様に記されている。
今般(こんぱん)、質素倹約、その他お取締り筋(すじ)のことに就き、色々仰せ出された趣きは、御代官や領主・地頭(旗本)から申し渡しもあって心得ていますが、御取締出役が御廻村の上、左の通り仰せられました。
一 在方(農村)では、百姓は国の元だから、奢侈とならず、質素を守る。肝要な耕作を捨て、利益のある作物を作らない。また江戸へ出て奉公をしない。先祖代々の村方を守る。
二 旅籠(はたご)屋の女中が遊女のような身形(みなり)をして、客を取扱ってはならない。
三 城下や船着場などで、許可された遊女町は別だが、往還筋や温泉場などで、女どもをおいて、旅人等の寝食の世話をしてはいけない。
四 江戸向けの出荷を自由にしたので、相場の掛引きで出荷を遅らしてはいけない。また農業をさしおいて、諸品を小売りして、自分の利益ばかり考えてはいけない。
五 お菓子など、すべて高値の食物は厳(きび)しく禁止してあるから、奢(おご)りがましい食物を作ってはいけない。
右のように仰せ渡された趣きは軽視しないで相守るように、村役人が世話をします。また役人も身分を慎みます。
人別送りも慎重に取扱い、無宿者が出ないように致します。なお五人組帳前書は、毎月名主宅で読み聞かせ、みんなに分るようにします。
右の仰せ渡された箇条を粗略に考えるものがありましたら、厳罰に処せられることは、一同承知致しました。
天保改革で手始めに着手されたのは、このような倹約令であった。もちろん改革以前にも奢侈をいましめ質素・倹約をすすめる御触は出されている。天保九年には、櫛(くし)・笄(こうがい)・簪(かんざし)・煙草(きせる)など、すべて無益の玩物(がんぶつ)(もてあそびもの)に金銀を費やすことを禁じ、一一年二月には諸大名に対して、質素・倹約の心得を忘れるなといっているが、その程度では華美な風潮は止めようがなかった。
このように、武士・市民などの都市に始まり、農村にまで広がって、全階層にわたって奢侈が取締られ、質素倹約がすすめられ、年中行事・風俗・趣味・娯楽など、人々の生活にうるおいを与える方の意味は一切考慮に入れず、みんな禁制の対象となった。
この奢侈禁止令、倹約令の実施にあたっては、同心や目明(めあがし)で監視するとともに、隠密(おんみつ)を放ってその摘発につとめた。きびしい取締りで、江戸市中に業を失うものが多く、怨みの声が沸騰するようになった。特に、忠邦の重用した南町奉行鳥井耀蔵(ようぞう)の苛酷な取締りは、民衆に恐怖の念を抱かせた。
このような峻烈な取締りは「俄かに事改りて、士農工商おしなべて戦(おのの)くばかり」(片山賢「寝ぬ夜のすさび」)であった。
しかし、この天保改革も、政策の失敗と、町民や農民の反対運動のために将軍の信任を失い、天保一四年に水野忠邦が罷免(ひめん)され、初期の意図を徹底しえずして挫折した。