村定(さだめ)・村掟(おきて)・村議定・村法ともいう。これは、江戸時代に村民が村政運用のためにみずから定めた法のことである。
その由来は、中世末に荘園制が弛緩し、戦乱による社会不安が増大したため、一か村だけであるいは数か村が連合して、対外抗争の危機を克服し、村落独自で治安を確保しなければならなかった。そのため、しばしば会合を開いて、自村ないし組合村々の団結を強化し、統制をきびしくした申合せをした。その時々の自治的な規約を成文化したものが村極の原型である。それで、この村極の性格は、自主自衛による生存のために戦った中世末の果敢な村民の姿勢を示している。
その条項は比較的簡単で、数箇条を並べるにすぎない。村民の進退、寄合の出欠、他郷への警戒と排除、盗伐・畑盗み・放火の禁止など、内部の結束強化に重点がおかれていた。
江戸時代には、幕藩体制の成立とともに、戦う農民の姿勢は消滅しても、領主法における抽象的・教諭的な法文とはちがって、村内での当面の事態に対処するため、具体的かつ直截(せつ)的に定められた。それで、村極は村民にとって現実的に生命力のある法であった。しかし時代の経過とともに、御法度・触書などの領主法の強い影響を受け、また五人組帳の盛行とともにその条項も増加して、五人組帳前書と同一化した。そして、その内容も類型化してしまった。
村極の規定は一般的には次のような項目である。
寄合 村役人 年貢 出役(道普請・川普請)村入用 相互扶助 協同作業 農業秩序 保安 風俗取締り 災害 出入(民事訴訟) 倹約 祭礼 道徳 経済統制 等
農村生活の全般にわたって規制力をもっていたが、倹約規定が最も多かった。
村は、そこに住む農民たちにとって、すべての生活の没入する小世界である。同じ氏神の氏子であり、同一の寺院の旦那でもある。その信仰生活は一糸乱れぬ統制が保たれていた。ヤソ教弾圧のために幕藩権力によってその統制は一そう強化された。そこには、近代的な信仰の自由はかけらもなかった。生産の上でも村人は全員、農業という同一職種に吸収されていた。農民以外は農村に住むことを禁止されていたからである。
また、秣(まぐさ)場は共有の入会いであり、水田灌漑の用水は共同に管理されていた。こういうふうに、信仰や職業はもとより、政治も経済も娯楽も、すべて村という共同体の中で、幾つにも重なりあった社会的絆(きずな)に縛られて、その生活は営まれていた、そして、そこに生じた慣習や伝統は、そこに生きる住民の行動や意識を強く規制した。村人はあることを考え、ある行動をするときに、必らず村の慣習や伝統の枠に従わなければならないことになっていた。これは、外部からの強制によるものではなく、むしろ、自分で自発的にそれに従わねば気がすまない、あるいは、不安のあまり心理的圧迫によるものである。「村の平和」とか、「村の秩序のために」とかいう言葉の魔術が、その行動指針を絶えず調整した。そこには、「尊厳なる個人」とか、「基本的人権」とかは、縁の遠い世界のことであり、個性を発揮したり、人権を主張したりすることは、「つきあい」の悪いろくでなしとして、非難の雨を浴びせられた。斉一的な、大勢順応的な、伝統的・慣習的な、逆にいえば没主体的な、非個性的な人間の世界であった。
これは、封建的共同体の中の農民の心性であったが、この強力な共同体的強制を換骨奪胎(かんこつだったい)して、年貢納入その他の農民統制に利用したのは幕藩体制であった。
村極のなかに定められる重要事項は、年貢滞納・犯罪の防止と、農民の生活原理としての倹約を強制することであるが、それらの件については、いくら御触を濫発しても根絶は不可能である。それで、効果的な政策として考えられたのは、本人一人だけに責任を負わせるに止まらず、村民全体にその責任を負わせる、すなわち連帯責任を課することであり、これは巧妙で実効性のある方法であった。
このようにして、村法制定の体裁(ていさい)は、ただ見せかけだけで、内容を伴わない自治であり、その名目のもとで村法が押しつけられたのである。それで村民は、その連帯責任が自分や組の者に及ぶことを恐れ、日頃から隣人の行動に警戒の眼を光らせねばならないような仕組に組みこまれてしまった。「壁に耳あり」である。
また村民は、それに呼応して、村極の効力を確保するため、追放を最高として、村八分・欠所・謹慎・体罰など、各種の制裁手段をとった。村八分とは、火事と葬式のほかは交際を断つことである。
次に、現存する高倉村と脚折の村極を例示する。
(イ) 高倉村 宝暦一三年(一七六三)三月
先規からの仕来り今度引締めのために申合せの連印帳
一 村役人が訴訟のため江戸出府の費用は二夜三日で帰宅する。御用のときは、駄賃・雑費として鐚(びた)(※註1)一貫二百文、組頭は七百文、百姓は五百文支給する。それ以上逗留するときは、名主二百文ほど増す。組頭・百姓は右に準じ、割りあてる。
二 名主が江戸出府のときは、送迎の馬を途中まで村方から差出す。遠方の村のときは、馬は名主から指名し、村方から差出す。出百姓の人足役は、本百姓がその分を埋めてきたから、後で出百姓が出金する。
三 村入用を高割りしたとき、名主から請取書を出さない。惣百姓は高割帳を見て捺印する。
四 名主の給料は、壱石六斗の米代金を御貼紙値段で割合せ、永楽銭で惣百姓が差出す。
五 定使給は、家別に鐚百文ずつ差出す。定使は、昔から名主方で勤める。
六 組頭は家別の人足役を出さない。
七 御役人が宿泊のときは、人足二人ずつ村方から差出し、賄いも間違いのないようにする。御宿の畳代・椀・家具代として少々出銭して、村入用として割合せる。
八 新田の出入の費用は本村と同様である。本村の御用を兼ねた場合は少々減額する。名主給は、出百姓から一町につき鐚百文ずつ名主が取立てて、紙・筆代にする。人足役は本百姓と持添百姓で勤め、普通の人足役は出作百姓へ分担させない。しかし臨時の場合は本百姓と出百姓の区別はない。
九 新田の費用で、名主が江戸から遠方へ出張するときは、送迎の馬は新田の百姓から出す。そのさい、本百姓・持添・出百姓の区別なく、村役人が持高を見計らって馬を申しつける。
一〇 新田の請取書は、年貢の分だけ出し、村入用銭の分は出さない。村入用割帳へ加判するだけですませる。
一一 盲女や座頭が通りかかったときや、一宿したときには、その費用は名主が支払い、村入用からは支出しない。
今後は右の通りにする。臨時に入用なときには、格別のことだから、百姓に相談して割合せ出銭する。
一二 他所(よそ)から来た者が、暗くなって致し方なく名主方より旅宿を申しつける場合には、その旅人の人品によって家を見計らって決定する。そのほか、家別に申しつけることもある。
右の条々は、先前から村方で仕来ったことだから、すべて得心(とくしん)しているはずだが、なおまた、今度、惣百姓相談の上、書面の通り申し合せ、違乱は致しません。
総員一〇三名(内三名重複)署名捺印
(ロ) 脚折村 文政六年(一八二三)六月
一 近ごろ、この村は秩序が乱れて、田・畑・野が荒され、村中が困っている。立木はもちろんのこと、枯木まで他人の持分へ手を入れたら本人は鐚(びた)三貫文、五人組は一貫文ずつ過銭(かせん)(※註2)を課す。
イ 茅や草を刈った者も右同断(※註3)
ロ 田畑を荒した者も右同断
ハ それを見逃した者も右同断
この過銭は村役人方に集めて村入用にする。また、これを見つけて村役人に知らした者には褒美(ほうび)として、銭壱貫文を与える。
七八名(村役人六名を含む)署名捺印
〔註〕
(1) 永楽銭以外の銭
(2) 科銭・過怠銭とも書く、罰金のこと
(3) 同じことわり。前と同じ。
〔備考〕
文化・文政期は、大江戸の退廃した繁栄の裏で、農村の荒廃はなはだしく、ことに関東では百姓は困窮のあまり離村する者が多かった。文化二年には、無宿や悪党を取締るために、関東取締出役が設置された。このような時代を背景に、脚折村では村極を定めたわけである。
(ハ) 脚折村 天保四年(一八三三) 一〇月
村方取締り議定書
一 博奕(ばくち)をしてはいけない。博奕の宿をした者は取押えよ。もし組合で押えようとしても聞き入れない者は村役人へ届けよ。村役人はそれを御改革出役(※註1)へ申し上げよ。そのさい越度(おつと)(※註2)になっても後悔するな。
〔註〕
(1) 御改革出役(しゅつやく) 文化二年(一八〇五)関東地方の治安維持強化のため、郡代・代官の手附・手代を選任して、くまなく巡回して犯罪者の発見・逮捕に当らせた。別項参照
(2) 犯罪
二 物価騰貴、ことに米などが格別に高値で、士農工商ともに困難だという。これは百姓町人が近ごろ奢侈になって、毎日の食物に米を食べるから、米が不足するのだ。町人百姓は米を食べてはいけない。また、酒作りは三分の一減らして、三分の二酒造せよ。
三 百姓まで世晴普請(よばらしふしん)をするのは、豊作の年まで中止せよ。家が大破して屋根替をするときは割飯(※)で助け合え。職人に頼んでも割飯ですませるよう頼め。決して馳走(ちそう)してはいけない。(*割り麦をまぜて炊いた飯)
四 先年から取り極(き)めてはあるが、近年乱れて田畑野山を荒す者がある。それでは百姓が困る。この度取り極めるのは、田畑の作物を荒し、野山で草・茅などを刈り取り、または、立枯れになったといって、刃物などを持っていって、立木を伐り取る者がある。見つけ次第捕えて村役人に申し出よ。過銭として銭三貫文を出させる。また、打続き不作だから、百姓仲間で重鉢(※註1)の取りつぎは豊作になるまで中止する。かつまた、無尽(むじん)(※註2)や奉加(ほうが)(※註3)なども延期する。このことは、村役人と小前一同が相談し、納得の上定め、左の通り連印する。
天保四年巳(一八三三)十月廿三日
小前四六名・村役人七名署名・捺印
〔註〕
(1) 重鉢の意味不明。重箱は正月や三月の節供のときに、料理や菓子を入れたりして客に贈った。多く表は黒、内は朱塗であった。
(2) 数人が集まって講を作り、それぞれ懸銭を出し、くじによって配当者をきめる
(3) 寄附金を集めること
〔備考〕
この年六月は異常低温で各地不作、関東は大風雨で作物の被害甚大。全国的な凶作・飢饉となる。天保大飢饉の始まり。
(二) 脚折村 天保七年八月
一 前々から幕府の御法度は堅く守ってきたが、なおまた関東御取締御出役から仰せられた御箇条の趣は、村役人から度々読み聞かされたので、いよいよ守るようにする。
二 博奕(ばくち)や諸勝負は決して致さない。たとい一銭のやりとりでも一切行わない。万一、宿をしたものがあれば、村役人へ届け出る。村役人は御取締御出役へ申し出て、お指図を受ける。
三 悪事の宿はいうに及ばず、無宿はもちろん、有宿の者でも他人には一夜の宿でもしない。もし致し方なく一泊させるときは、組親(五人組の)へことわってからにする。
四 前々から堅く申しておいたが、近年世の中が乱れて、作物を荒す者がある。一同困るから、この度、百姓がみんなで相談して定める。田畑山林を荒した者は、女・子供でも見つけ次第捕えて、名主の役宅へ連れてゆく。そして村中残らず集まって、村中を引廻しの上、五人組へ渡す。
五 近年、不作が続くから、いろいろ倹約すべきことを、百姓一同相談の上きめることにした。祝儀・不祝儀は費用や雑費がかからないようにする。このことについては、組親と相談して取りはからうことにする。
六 不幸のとき、茶菓子は、村内の請け取りはもちろんのこと、他へ持出すことをしてはいけない。なお、百姓仲間で重鉢の取りやりすることは、豊年になるまで堅くしてはならない。
以上、四つの村極でわれわれが知ることは、度重なる飢饉や一揆で荒廃した幕末農村の実状が如実に現われているということである。
ここで繰返し村極の対象となっている三つの項目は、単なる訓戒的のものではなく、村極をいくら重ねても一向に効果の上らない、まるで重病人のようなものである。田畑山林が荒されるのは、下層農民が貧窮のあまり、他人の作物で一家の飢えを凌(しの)いでいるのであろうし、枯木を盗伐して、やっと燃料を手にすることができたのであろう。博奕(ばくち)や無宿については、有名な上州無宿だけでなく、ここ武州でも離村した農民が武州無宿となって、放浪する姿を見ることができる。無宿も有宿も貧窮のどん底にあって家計の切り廻しに追われる妻と、飢えに泣く子供を抱える農民は、ばくちという真剣勝負に、喜怒哀楽のすべてを忘れて、勝利と敗北の劇的効果をねらったことであろう。
〔参考文献〕
『鶴ケ島町史』近世資料編Ⅲ
前田正治『村法の研究』
小野武夫『日本村落史概説』
福武直 『日本農村社会論』
同 『日本農村の社会的性格』
小倉武一『農民の社会的性格』
講座社会学『家族・村落・都市』