文化二年(一八〇五)、幕府は関東取締出役という役職を設けた。略して八州廻りという。その目的は、その頃、無宿者や渡世人が関東に横行し、彼らの行動が目に余るほどであったので、衰えかかった幕府も警察機構を強化して、強力な政治力を示す必要があったからである。
それでは、無宿人とか渡世人とかいわれる悪党は、どうして生まれたのであろうか。それは、商品経済が農村に行きわたるにつれて、自給自足を立前とする農村の構造がゆるみ、農民は富農と貧農との両極に分れ、その階層分化とともに耕地を失って、水呑・日雇となったり、出稼ぎ・離村者となる者が次第に多くなってきた。この潰百姓と不耕地の増加は、天明の大飢饉を始め、ほとんど周期的に襲来する災害によって、いっそう促進された。
近世の村では、百姓を法的に村の共同体に束縛するものは、宗門人別帳であった。それから外されることは、村の百姓としての身分と地位を失うことになる。その結果、関東の村では多数の無宿者が生まれ、博徒などの渡世人の生活を送る者が増加した。関東農村で、「渡世人の横行」と評されるようになったのは、農村の構造の変化の結果である。
これらの渡世人のことを侠客(きょうかく)(博徒(ばくと))といい、護身用の長脇差(ながわきざし)をさし、縞(しま)の合羽(かっぱ)に三度笠という目だつ服装をしていた。それがいわゆる渡世人のスタイルである。賭場(とば)には貸元(かしもと)がおり、身持の「不埒(ふらち)」の者などを抱えて、「子分」と称した。賭場は彼らの収入源であり、その勢力のシンボルでもある。縄張りを維持し、拡大するために組織の間に起こる争いが「出入り」といわれるもので、文化・文政期から幕末期にかけて大きな社会問題となった。