彼ら悪党の動きが特に目立った江戸周辺で、有効な取締りの必要から、幕府は文化二年(一八〇五)関東取締出役制を採用したのである。関東の四手(して)代官、すなわち、品川・板橋・大宮・藤沢の代官を取締に任命し、その配下の手付(てつき)・手代(てだい)を二人ずつ出して、合計八人を出役としたのである。
彼ら八人のうち、二人が一組になり、四組で関八州を巡廻した。出役の範囲は関東一円であり、水戸藩を除く天領・私領・寺社領の区別なく廻村させ、犯人の逮捕にあたらせた。関東では、川越・忍・小田原・佐倉・古河・水戸・土浦・笠間・館林・高崎・前橋・宇都宮の一二藩を除いて、二、三万石以下の小藩ばかりで、しかも、大名の領分や天領・旗本の知行所なども多くは一箇所にまとまらず、各地に飛び地になっているのが普通である。脚折村のように、一村に天領・大名領地・旗本知行地が混在するのは珍しくない。そうすると、管轄する領主が異なるから、一村内のある旗本知行所で罪を犯した者が、同村内の大名領地に逃げこむと、旗本の方では手が出せない。これでは、犯罪者の捜査・逮捕という警察機能を発揮できるはずはない。
文政改革の出発点は、無宿者を中心とする反社会的な勢力の取締りにあったのであるが、これらの渡世人の目立った存在は、武州のうち中山道鴻巣宿あたりから秩父郡あたりまでで、その他に上野・下野・常陸ならびに下総国銚子・佐原あたりである。そこには、いったん追放の御仕置を受けたものや、久離(きゅうり)・勘当・欠落などの帳外れの無宿になっている者が大ぜいいて、仲間をつくっていた。
文化一〇年(一八一三)、取締代官大貫(おおぬき)次右衛門は、取締りの苦心談を次のように記している。
大貫他三人で、在々の取締出役手付・手代どもと廻村し、そのさい見当をつけた者は召捕えた。しかし、近村には子分と名乗る者が沢山(たくさん)いるし、更に近頃は、駅場の荷持などの稼ぎ渡世の者などが、親分に、取締出役の廻村することを、前々に内密に知らせるから、こちらで見当つけた者は早速(さっそく)遠方へ逃げて、取締出役とは行きあわないようにする。また、彼らの身分をお上(かみ)に申し上げると、命知らずのあぶれ者の子分が、遺恨を含んで、田野や人遠い場所で、口論をしかけ、打擲(ちょうちゃく)し、疵(きず)を負うような目にあわせるので、一般の百姓はもちろん、村役人まで恐怖を抱いている。御構(おかま)いの地(追放された土地)を徘徊(はいかい)しても、それを制止する者もなく、親類・組合もかかりあいにならぬようにしている。平日、村方に来ても咎める者もなく、帳外(はず)れになった後でも、許して村においている状況である。
取締出役が召捕えようとしても、名前を聞くだけで面体(めんてい)がわからないので、案内人足を雇っても、これまた「抱(かかえ)」と称する人々で、幕府に告げ口をした者には、そのしかえしに、密告者の犯罪をあばいて、召捕えるように申し立てる。そうでなくても、後日に遺恨を含むのを恐れて、案内を辞退する。(「地方落穂集追加」巻五による)
文政一〇年(一八二七)幕府はあらためて「取締政革の触書(ふれがき)」を公布した。その内容は、『鶴ケ島町史』近世資料編Ⅳに全文を示してあるが、概要は次の通りである。
それには前文と後文とに分れているが、その要旨は
(一)幕府の法度・五人組帳前書の厳守
(二)無宿者・長脇差・博奕(ばくち)・強訴(ごうそ)・徒党などの禁止
(三)農村内の歌舞伎・手踊り・操(あやつり)芝居・相撲などの禁止
(四)神事・祭礼・仏事・婚礼などの簡素化
(五)農村内での商業・職人手間代などの統制
(六)村費の減額奨励
(七)組合村の設定と、囚人送りの費用負担