第五節 当地方の紊乱した世相

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 この頃には関東一円の治安は、もはや一私領主の権力では処理しきれないような状態になっていた。それを幕府が直接に支配することによって、「悪党」の横行などを治安維持の立場から取締るだけでなく、個々の領主の年貢徴収に支障を起すものを取除くのに役立ったのである。
 この幕末のこの救いがたい混乱の模様を、地元の名主文書の中から解説風に摘記すると次のようである。
  ○当村百姓与市他五人の者どもは、小前でありながら村役人を蔑(ないがし)ろにいたし、弁(わきま)えのない者どもをそそのかし、村内鎮守の境内へ集まり、容易ならざる所業(行い)に及び、拾ておきがたいから、殿様の方でこの男を取締ってもらいたい。
  ○与市他五人はますます増長して、小前どもへ次のように言い触らしておる。村役人から差上げた願書は、勝手気ままだから取上げることはできない。小前の申立ては正しいからそのうちに村役人は罰せられるかも知れない。
  ○弁えのない小前どもは、この流言を本当だと信じて、いよいよ村役人を軽蔑(けいべつ)し、殿様の申付を行わない。なお近頃は、何を相談するのか、日々夜々集会して、大げさな酒宴を催し、右のようなことを銘々が口走っているので、村役人も困っている。
  ○この旨を、名主重右衛門が惣代となって殿様へ届け出るよう頼んだが、重右衛門は、そんなことをすると、当人はもとより重右衛門まで咎(とが)められるから、私が本人を取鎮め慎しむようにすると約束した。
  ○当節は、大切な収納の時期であるが、このような状態では取立てもできない。また、私どもは村役人でありながら、その責任も果せないのでまことに困っている。私が惣代となって、出府して歎願いたします。
    文久元年(一八六一)
     十二月十三日
        武州高麗郡高萩村役人惣代 惣蔵
   御地頭所様
     御役所
 不法・不埒(ふらち)・非分・我儘(わがまま)など、あらゆる悪名を浴びせられた正蔵とその一味が、安永頃(一七七一以降)に出現すると、「前々から名主の差図(さしず)を用いない百姓は一人もなかった」のに、「これまでの例にない事件だから、名主の方でどう取扱ったらよいのか分らない。」と、名主を歎かせた。そしてて、結局は領主清水家(御三卿の内の一家)の御威光にすがって、その下知(げち)を待つほかはなかった。
 このような紊乱した村々の状態を反映して、無宿者や渡世人が横行したことは前に述べたが、ここらで全国にその名をりられた博徒の親分のご登場を願い、つづいて地元の渡世人にも顔を貸してもらうことにしよう。
 博徒の本場といわれた上州には国定忠治のほかに、大前田英五郎、三ツ木文蔵・高瀬仙右衛門などの有力な貸元がおり、下総の飯岡助五郎・笹川繁蔵、武州の小金井小次郎、府中の田中屋万吉、日高町高萩の鶴屋万次郎、などの錚々(そうそう)たる親分たちのいた時代である。
 土地の売れっ子としては、寛政から文化にかけて、赤尾の林蔵と高萩の伊之松がいた。その林蔵が伊之松を殺したことから事件が発展した。場所は林蔵の縄張りに近い大塚野新田(鶴ケ島町富士見)である。そこへ伊之松が賭場を開いたことを聞くと、林蔵大いに怒り、単身踏みこんで伊之松に重傷を負わせた。その傷がもとで伊之松は翌日死んだ。享和二年(一八〇二)のことである。そこで、黙っていられないのは伊之松の子分どもである。早速、仇討をしなければいけない。林蔵はこれを機会に無宿者となり郷里赤尾を出奔した。中山道上尾宿に林蔵が潜伏しているのを嗅(か)ぎつけた伊之松の子分どもは旅籠(はたご)屋足立屋清右衛門を襲撃して、林蔵を殺した。以下、「中山道上尾宿敵討御裁許」という写本によって、事件の概要と関係者を記すことにする。裁許とは判決のことである。
  留五郎 兄、長左衛門(伊之松)を殺して逃亡した無宿林蔵は「強力にて手に及びがたい」者だから、見当次第殺してくれと、無宿庄九郎その他の者に頼んでおきながら、その後、頼んだ通りに実行されると、庄九郎その他が重刑に処せられるのを心配して、自分一人で殺したのだと嘘を申し立てた。それで、文五郎・与市・徳次郎も林蔵へ切りつけ、最後に林蔵の首を政蔵が討落したことを隠していた。その他、政蔵とは同居しながら、「村御預け」の処分中の政蔵が外出するのを差止めなかったのは不届(ふとどき)である。「所払い」の処分にする。
  無宿源太郎こと権太郎 林蔵を見つけ次第殺してくれと留五郎から頼まれ、留五郎がいなくとも林蔵を殺そうと、長脇差を帯び、庄九郎その他の者と上尾宿へ行った。そして、清右衛門の二階へ上り、庄九郎が初太刀で林蔵を突き、つづいて権太郎が切りつけた。また、留五郎が自分一人で林蔵を殺したと嘘の自白をしたとき、その通りだと偽証した。それに、捕方の御役人が来ると逃亡した。また、鴻巣宿の無宿嘉吉を鳥羽井(とばい)の無宿熊五郎が疵(きず)つけたとき、山中へ逃げこまないように、脇差を抜いて山際(ぎわ)にひかえていた。その他にも、人別帳にも載らない与五郎方に滞在した。不届だから「中追放」に処す。但し、お構(かま)え場所を歩きまわることを禁止する。
 政蔵 林蔵を討とうとして、留五郎を探したが見当らないので、林蔵を逃してはならないと、脇差を帯びて上尾宿へ行った。庄九郎・権太郎などが林蔵を殺したとき、二階へ上って林蔵の首を打落した。また、留五郎が自分一人で林蔵を殺したと嘘偽の自白をしたとき、口を合せてその通りだと言い張った。そして、自分が首を打落したことを隠していた。その上、「御預け」中に、母いちが病気だと言って見舞いに行った。この段、不届につき「江戸十里四方追放」を申し渡す。
 鳥羽井(比企郡)無宿定五郎 旅籠屋清右衛門の二階で、林蔵を庄九郎その他の者が殺したとき、二階の下にいた。また、博奕をしようとして、文五郎と馬室(まむろ)無宿三之助と申し合せ、武州鳥羽井新田を通ったとき、文五郎は七五郎を疵つけたから、必ず差押えられるといって逃げ去った。そのとき三之助も逃げたのをそのままにしておいた。その上、武州村々を博奕の道具を持歩き、また、権太郎が鴻巣無宿嘉吉を殺そうとして、その行方(ゆくえ)を尋ねたとき、教えてやった。そして、吟味中にいろいろ嘘の申し立てをした。よって「中追放」を申しつける。御構場所は前と同じ。
 無宿峯吉 林蔵を殺したとき犯人の付き添いをしていた。また、留五郎の嘘偽の申し立てに同調した。そして真の犯人を隠した。その他、吟味中に数寄屋町一丁目忠次店(だな)の喜三郎に御預けになっても、大宮氷川神社へ参詣し、その後も、深川八幡へ参詣するといって、喜三郎宅を出て、吉兵衛・音次郎といっしよに舟に乗り、亀蔵その他の者がいる舟に乗移り、金銭・衣類を無理に押借りするのを見ながらも、聞き入れなかったからといってそのままにしておいた。喜三郎方へ帰ってもその一件を家人に隠しておいた。故に「十里四方追放」御構場所は前と同様。
 鴨田無宿伊之助 林蔵殺害の節、助太刀をしようと棒を持って上尾宿へ行った。そして、旅籠屋清右衛門宅の後ろに待伏せしていた。もっとも、商い先から讃州金比羅へ参詣し、そのまま帰ってこないので無宿となったのだが、親の林蔵へ伊之助の行方を役人が尋ねても、子の行方を知らないから、申し立てをしなかった。それで「手鎖(てじよう)」御預けの処分になった。それを聞いた依之助は、奉行所へ駈けこんで、「手鎖」御預りを許してもらいたいと申してきたが、不届だから「江戸払い」を申しつける。但し、構場所は前同様。
 重右衛門 無宿林蔵を殺したとき、助太刀をしようと、徳次郎から脇差を借りて、清右衛門宅の後ろに待伏せしていた。そして、留五郎が殺したのではなく、庄九郎その他が犯人だと真実を述べたが、林蔵の首を政蔵が打落した件は隠していたので不届である。故に、「所払」を命じる。構場所は右同様。
 大谷沢無宿万五郎 林蔵殺害を母いせに頼まれ上尾へ行ったが、殺害現場で恐ろしくなり、清右衛門宅の近所にいた。かつまた、馬引沢で酒狂を口実に人の女房に乱暴した。そして、武州原地河原(不明)などで度々博奕をし、そのさい楡木(にれぎ)村捨八も手合せに加わったというが、不届だから重追放を申しつける。但し御構場所は右同様。
 いせ(伊之松・留五郎の母) 無宿林蔵を見当り次第殺してくれと頼みまわった。そして、伜留五郎が不参のことを知りながら、同人一人で林蔵を殺したという申し立てを止めなかった。また、庄九郎以下の者が林蔵を殺害したことを知っておるのに隠していた。かつまた、同居していた政蔵が「村御預」中に外出したのをそのままにしておいた。よって不埒だから「押込」を申しつける。
 武兵衛 村内の留五郎一人で林蔵を殺したというのが作り話だと存じながら、村役人にも伝えないで、そのままにしておいたのは不埒につき「手鎖(てじよう)」仰せつける。
 徳次郎 不届につき「軽追放」
 藤兵衛 不届につき「江戸払」
 長吉  不届につき「江戸十里四方迫放」
 大宮無宿弥吉 不届につき「江戸払」
 鴻太夫 不届につき「所払」
 与五左衛門 不埒につき過料銭拾壱貫文
 勘右衛門・五郎左衛門 不埒につき過料銭三貫文
 万次郎・与惣右衛門 「急度(きつと)御叱」
 善次郎 不埒につき過料銭三貫文
 長七  「村預り」を申しつけられた政蔵の番をしていたとき、同人母の川越町行伝寺門前に住む佐平次後家いちが病気だから、看病に行きたいと申すにまかせ、村役人にも相談せず、政蔵につき添っていち方へ行った。政蔵も病気だから、まさか逃げるようなことはないと思って、政蔵をいち方へおきっ放しにしておいて、川越本町へ薬を買いに行った。これは不埒だから「急度御叱」にする。
 喜右衛門・文八・源太郎 「村預け」になった政蔵が、番人長七がつき添い、川越行伝寺の門前に行ったのを、そのままにしておいたのは不埒である。よって、喜右衛門「過料銭三貫文」、文八・源太郎「急度御叱り」
 いち 政蔵は高萩村の「御預り」の者と知りながら、村役人へ知らせずに、数日留めおいたのは不束(ふつつか)である。「過料銭三貫文」
 喜三郎 不埒につき「過料銭三貫文」
 源次郎 「同銭三貫文」
 無宿留五郎 「急度御叱り」。武州入間郡葛貫(つづらぬき)村清右衛門へ御引渡し
 三之助 不届につき「重追放」神田佐久間町弐丁目、武兵衛店平兵衛へ御引渡し
 たき 「押込」
 惣五郎 「御叱り」
 友右衛門 「五貫文過料」
 越ケ谷宿清右衛門 右品御取揚げ
 手形村(上尾市平方)名主・組頭ならびに善次郎組合名主 「急度御叱り」
 組頭一同 「御叱り」
 無宿卯之助 「不埒の筋」がないから「御構(おかま)え無し」
右の通り、道中奉行柳生主膳様お懸りにて、当辰(文化五年)御裁許仰せつけられ候
 
  〔用語解説〕
   不埒(らち) 叱(しかり)・急度(きっと)叱・手銷(てじょう)・過料などの軽い刑(御咎(とがめ))、
   不届(とどき) 所払・追放などの重い刑(御仕置)。
   過料 罰金と同じ。原則として三日以内に銭を納める。
   押込(おしこめ) 一室内に閉じこめ、戸を閉めて外出を許さない。
   預(あずけ)  村内のどこかに住まわせて、村中で監視させて、入牢に代えた。
   手鎖(てじょう) 両手を手鎖(錠)で縛り、これに封印する。世話は家族がする。
   叱(しかり)  最も軽い刑である。叱りといっても罪人の不心得を諄々とさとす。しかし、奉行所の吟味の上で決定するので形式上はやかましかった。名主・差添人同道で叱責を受け、請書に署名する。二度繰返すと重い罪科に処するとおどかされる。
   急度(きっと)叱 叱の重いもの
   所払 在方の者はその居村に立入りを禁じられる。
   江戸払 品川・板橋・千住・深川・四谷大木戸の内から追い払う。
   江戸十里四方追放 日本橋から四方五里以外へ追放する。
   軽追放 江戸十里四方・京・大阪・東海道筋・日光・日光道中を御構地とする。
   中追放 武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曾路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河を御構地とする。
   重追放 武蔵・相模・上野・下野・安房・上総・下総・常陸、山城・大和・摂津・和泉・肥前、東海道筋・木曾路筋・甲斐・駿河を御構地とする。軽・中・重のいずれの追放も、現居住国と、罪を犯した国も御構地となる。
   御構(かま)い 江戸時代の刑罰の一つ。追放すること。
   御構い場所 立入禁止区域

 林蔵を殺害したときの状況は、庄九郎が初太刀で突き、つづいて権太郎・文五郎・与市・徳次郎の四人が切りつけ、最後に政蔵が首を落したことになっている。赤尾村の御用留には「林蔵殺害され候は、足立屋清右衛門二階の六畳間で、蒲団の上に打臥し、鎗ツキ込みまかりあり候、首は打落し、高萩村へ持来り仕り候を御取寄せ、御検使これあり候ところ、太刀傷しめて三十ヶ所に御座候」と記してあり、めった斬りのすさまじさを伝えている。ただし、庄九郎は初太刀で突いたのであり、鎗を使ったのではないことになっている。
 この判決を見ると事件関係者は五一人の多きに達しており、無宿卯之助を除く五〇人が、軽きは「叱」から、重きは「重追放」の刑に処せられている。しかしこれは、伊之助を取巻く関係者であり、殺された林蔵の周囲にはもっと多くの無宿・有宿の渡世人が集まっていたとみなければなるまい。
 なお、この判決で無宿という人別外れは一一人であるが、これは伊之助をめぐる無宿だけであるから、各村々には大ぜいの無宿がいて横行していたのである。
 鶴ケ島には中新田村出身の高麗川源七という渡世人がいた。文政一三年八月二〇日に自害したことになっているが、彼の活動範囲や自害の理由、および、なぜ中新田を名乗らないで、高麗川といったのか、詳しくはわからない。ただ、「古今侠客番附」の上位にランクされているところをみると、相当の親分だったようである。なおその他に、番附に載った近在の親分衆には、高坂の藤右衛門、坂戸の国太郎、霞ケ関の仁左衛門、所沢の万吉がいて、爛熟した化政期の世相を物語っている。
   〔備考〕
  (1) 赤尾林蔵の記事は、『坂戸人物誌』第2集によった。
  (2) 刑罰用語の解説は
      平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』
      石井良助『江戸の刑罰』による。
  (3) 高篠喜一「高麗川源七伝」『鶴ケ島研究2』