無宿

404 ~ 405
帳外になった者は、当然に無宿となる。「武州無宿」などと呼ばれる者がこれである。しかし、無宿と博奕(ばくち)打ちとは同一でない。
   〔参考文献〕
  石井良助『日本法制史概説』
  三浦周行『法制史の研究』

(イ)欠落と帳外の百姓甚兵衛
  恐れながら書付を以て申し上げ奉り候
     武州高麗郡脚折村
             百姓 甚兵衛 亥四十二才
       欠落
             妻  みや   四十三才
       たつ ちを 奉公に出居 娘  すゑ    七才
             伜(せがれ)  長五郎    三才
  右は当時四人暮しにて、高壱石九斗七升所持(※註1)(以下不明)
   嘉永四亥年十月廿二日 右親類兼
                組合 善兵衛
                名主 左平太
   江川太郎左衛門様
     御役所
  右訴え上げ候ところ、百八十日尋ね仰せつけられ、尋ね候ところ行衛相知れず、翌子年三月訴え上げ候ところ、左の通り御受書仰せつけられ候。
   差上げ申す一札の事
  脚折村百姓甚兵衛・女房みや・伜長五郎・娘すゑ儀、去る亥年十月中「欠落」いたし候段御訴え申し上げ、その節は「日限尋ね」仰せつけおかれ候ところ、行衛相知れざる旨御訴え申し上げ候に付、御吟味の上、左の通り仰せ渡され候。
  一 甚兵衛・みや・すゑ・長五郎、行衛尋ね仰せつけおかれ候ところ、「御日限(おひぎり)」まで罷り出でざる段、不埒につき、一同「急度御叱り」おかれ、「尋ね」は御免、甚兵衛外三人は「帳外」仰せつけられ候。
 
  右仰せ渡されの趣き、一同承知畏(かしこ)み奉り候。もし相背き候わば、御咎め仰せつけらるべく候。仍って御受証文差上げ申し候ところ件の如し。
       当御支配所
            武州高麗郡脚折村
                百姓甚兵衛親類惣代兼
                    組合 善兵衛
                村役人惣代
                    組頭 治郎右衛門
      江川太郎左衛門様
           御役所
  〔註〕
 (1) 高一石九斗七升を所持していた甚兵蔵は、文化の名寄帳を見ると、屋敷は保有せず、田七畝一三歩、畑五反三畝七歩、計六反二〇歩の反別をもち、名寄帳名請人八六人のうち四六番目に位置していた。

   恐れながら書付を以て申し上げ奉り候
                武州高麗郡脚折村
                 甚兵衛娘 たつ 十七才
                      ちを 十二才
  右親類・組合・村役人一同申し上げ奉り候。前書甚兵衛義は去る亥十月中欠落いたし、その段御訴え申し上げ奉り候ところ、その砌(みぎ)りより三十日ずつ、六切り、百八十日限り尋ね方仰せつけられ、当時尋ね中のものにて、素より娘両人は若年の身分、親類・組合相談の上、奉公住まい致させおき候ところ、去月五日奉公先より不斗(ふと)家出いたし、そのまま立帰り申さざる旨、主人方より知らせ来り候間、手配いたし精々相尋ね候えども、何分行衛相知れ申さず、右は全く甚兵衛忍び参り、連れ出し候義と相聞く。何にても両人身分につき、出入抱(かかわ)わり合い等御座なく候えども、出先において何ようの義仕出し申すべくも斗りがたく、余儀なくこの段御訴え申し上げ候。以上。
  子年二月朔日          組合 太左衛門
                 村役人惣代
                   組頭 次郎右衛門
     江川様御役所
   日限訴え、子八月七日訴え上げ候ところ、帳外仰せつけられ候。
                    組合 太左衛門
                    名主 左平太
(ロ)久離と帳外の勝五郎
    恐れながら書付を以て願い上げ奉り候
          御知行所
           武州高麗郡脚折村
             百姓忠右衛門伜勝五郎
   右は博奕(ばくち)いたし、遊び歩行(あるき)、親忠右衛門へ不法におよび候義もこれあり、その外、組合・村役人へも同様の次第にて、何方へ罷り越し候や、立戻らず、後難の程も斗りがたく候間、久離・帳外仰せつけられ下しおかれ候よう願い奉り候。
      申(天明八年か)          右 忠右衛門
                        村役人惣代