第二節 不法・不埓・我儘・非分の昌右衛門とその一味

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 近世後期に入ると、農村の経済社会構成に大きな変化のきざしが見え始めた。商品経済の農村への流入は、農業経営と農村秩序とに動揺を招き、享保・天明期に代表される慢性的な凶作飢饉がそれに一層の拍車をかけた。この様な時に遂行された寛政の改革は、荒廃した農村の復興を行なうことで農村支配を強化し、幕藩体制の立て直しを計ろうとするものであった。
 鶴ケ島の各村々も、当然のことながらこういった情況と無関係ではいられなかった。以下揺らぎつつある村の秩序の中で異端として振舞い、寛政の改革という政策的潮流の中で処罰された、昌右衛門とその一味の行状について触れてみよう。
 次に掲載するのは、天明から寛政にかけて、郡方御役所あてに名主の提出した訴状の要約である。それによると、名主は自分の窮情を縷々として述べている。
 安永から寛政四年(一七七二~九二)にかけて、昌右衛門とその一味一三人がいた。彼らは徒党がましく申し合せをして、昌右衛門へ荷担(かたん)(味方)し、組頭源八を蔑(ないがし)ろにし、今でも九左衛門・昌右衛門の手下についておる。そして、この二人に物ごとの指図を受けて、一三人が申し合せをしたのだからといって、それを権威にする。この度も我(が)を張って言いつのったため出入(訴訟)になったようだが、まことに不埒である。彼らは村役人の手に余る存在だ。殊に村役人の指図を受けないのをそのままに捨てておいては、他の百姓も村役人の言うことを聞かないようになる。このようなことでは、村はとても治まらない。村役人をしていても仕方がないから退役したいと村役人たちは言っている。名主としても、村役人として諸役を勤めることのできる相応の者も見当らないから、自分が無理に留めておいた。右の組頭どもが退役したら、私一人では御用も村用も勤めることができなくなる。
 このように、名主も持て余して、領主の指図を仰がねばならぬようになったのだが、それでは昌右衛門とその一味が、名主を困惑の極地に立たしめた行為は何であったか。
 村役人の指弾する彼らの不法・不埒・我儘の行為は、村内に起こる各種の事件に及んでいる。
(一) 名主を頂点とする村内の指揮系統に従わない。
(二) 婚礼の席上で暴れた。
(三) 嫁入りが破談になったとき、婿の仲間を大勢引連れて嫁の家に押寄せ、略奪結婚をしようとした。
(四) 組頭の娘の縁談を邪魔して、破談にした。
(五) 昌右衛門の妻が病死したとき、檀那寺を無視して、舅(しゅうと)の寺の墓地に葬った。
(六) 祭礼の節、我意(がい)を申し立て、反対の頭取となった。そのため支障が生じて、数日間祭礼ができなかった。
(七) 三日正月に止むをえないで仕事をしていた三人の百姓を咎めた。
(八) 渇水のため蒔きつけが遅れたとき、名主から精出して蒔きつけるよう申し渡したが、昌右衛門は蒔きつけには及ばないと内々に言い触らしたので、百姓が迷惑した。
(九) 年貢をいつも期限通りに上納しない。
 その他、際限のない名主の繰言(くりごと)である。これらの苦情は、奉行所への請願書のなかから拾い集めたものである。これを見ると、昌右衛門とその一味の反抗は、村の古い秩序を打破するための公然とした宣戦である。名主の繰返しいう村定めとは、何か村内に問題が起こり、それを解決するための相談は五人組の中で話し合うことだけが認められ、五人組の枠を外れて他組の者と話し合うことは禁止されることをいう。それで他組の者を入れて相談することは村定めを破ることになる。それは幕府の最も警戒する徒党と見なされるのである。それで、村方が治まるということは、他組の者と話し合わず、どうせ意見の一致する見込みのない組内の者だけで話し合うということであり、結果としては、村民は村役人の指図をただ従順に守ればよいということである。
 幕末になれば各地で暴動や一揆が頻発し、平和に暮してきたこの村でも、風の便りにそれらの様子が伝わってくる。村を見廻せば至る所に徳川封建制の矛盾が満ちている。目覚めた者にはかかる封建制への対抗と闘争が生れてくることは当然のことである。
 昌右衛門は寛政四年頃に中追放の刑を受けついに村を追われることになるが、徳川封建制の変革の意識に目覚めたものではないとしても、この時代から連続的に勃発する世直し一揆の先駆者たる資格をもつものといえよう。幕末の荒廃した世相は、一方では無宿や博徒の横行を生んだ。と同時に、他方では昌右衛門のような異端者も現われたのである。