文化・文政期には、先述のように関東農村は荒廃の極に達し、無宿や渡世人が横行して目に余るものがあった。それを取締るために幕府は文化二年(一八〇五)に関東取締出役を設置し、更にそれを強化するために寄場(よせば)組合を文政一〇年(一八二七)に作らせた。
この頃、太田ケ谷村にも関東農村の世相に習うかのように一人の無頼漢がいた。名を留三郎という。鋤鍬(すきくわ)を手にして農業専一に質朴な生活を営むべき身分を忘れて「農業を不精(ぶしよう)にして行状(ぎようじよう)よろしからざる」男であった。平常、喧嘩口論をしかけ、弱きをいじめ、酒色に身をくずし、ついには悪党と呼ばれるようになって、村人も遠ざけて相手にする者もないようになっていた。この留三郎がちかの父平左衛門を殺害した状況と、ちかの仇討の顛末(てんまつ)を「武州高麗郡太田ケ谷村敵討銘々口書(自白書)」によって記すと次のようである。
文化八年(一八一一)八月一四日の宵待に、太田ケ谷村の百姓一同が、村の課役のことで相談があり、ちかの父平左衛門も出席した。会が終って仲間の倉八・平吉の二人と連れ立っての帰りみち、なじみの居酒屋に立ち寄って酒をくみ交していた。ところが、そこを通りかかった留三郎がそれを見て、仲間に入れろと中に入り一緒に飲むことになった。しかし胸に一物のある留三郎は何かにつけ管(くだ)を巻き始めたので、相手が悪いと立ち去ろうとすると、留三郎は怒って喧嘩となった。ついには隠し持っていた短刀を抜いて平右衛門を刺した。仲間の倉八と平吉はとめに入ったが、二人とも浅傷(あさで)を負わされた。その内、店の主人や近所の人々が駆けつけてやっと治まった。しかし平左衛門の傷は深く、手当の甲斐もなく習朝ついに息を引取った。
このことが村役人の耳に入ったので、一応取調べはしたが、村内から下手人を出すと事面倒と思い、内済で解決する方針を立てた。倉八・平吉は浅傷(あさで)だから示談はすぐ整ったが、平左衛門方の交渉には苦心した。思案の末、下手人の留三郎を坊主にするという案をたずさえて、父の喜兵衛に交渉した。村のお歴々の扱いには反対できないのが村の風習である。喜兵衛は涙を呑んでその裁きに従った。
数日の後、村役人は同村万福寺の住職自証に事の顛末を話して、留三郎を出家させ、法号を蓮城坊と称した。しかし、性来のならず者の悪習は改まることなく、酒色に耽(ふけ)り、村人に借金を重ねた。これを見た自証は、足立郡石戸宿村の放光寺が無住であったので、その寺の留守居に移した。
ちかは、文化一二年(一八一五)に一四才になったので、大谷沢村の平兵衛の倅喜右衛門を婿養子として迎えた。しかし祖父の喜兵衛は同年に死亡した。その臨終に伝来の刀を渡して、ちかが女だから父の仇を討てないのは残念だと言い残した。
その後、文政三年(一八二〇)に万福寺住職自証が遷化(せんげ)した。このとき、蓮城坊は師弟の縁もあって、その葬儀に参列した。法要・埋葬の式をすませ、斎(とき)の船若湯(はんにゃとう)(法事の酒)に泥酔して千鳥足で帰途についた。これを見たちかは追いかけて笠幡の森の中の一本道で追いついた。そのとき、祖父から譲られた秘蔵の刀を抜いて背後から思いきって肩から腕へ切りつけた。後は夢中で所かまわず突き刺した。
これが孝女ちかが苦節一〇年、やっと父の仇を討った話のあらましである。
検視の結果、蓮城坊の傷は
胸の突疵(きず) 一か所
頭右耳の後の切疵 一か所 但し癒(い)えた疵
右肩先より二の腕へかかり深疵 一か所 但し長五寸
右肩のかすり疵 一か所
横腹の突き疵 一か所
右の手平の疵 一か所 但し癒えた疵
この一件に関する御裁許(判決)は次の通りである。
一ちかは百姓の女房の身分としては奇特(心がけよく感心)だから御構えなし(無罪)。
一伊兵衛(太田ケ村名主)、喜兵衛(同組頭)、半右衛門(同百姓代)、惣右衛門、丈七(笠幡村組頭)、新右衛門、勝次郎(的場村百姓)、喜右衛門(笠幡村百姓)は、留三郎が平左衛門へ手疵を負わせたとき、扱(あつかい)人(仲裁者)として仲へはいり、平左衛門の疵が癒えないのに、癒えると思って内済にした。その後、平左衛門はその疵がもとで死んだのだが、平左衛門の父喜兵衛が訴訟を申し立てることはしないと考えて、そのままにしておいた。また、留三郎が逃亡した後で、万福寺の弟子になり、石戸宿村の放光寺の留守居をしており、おりおり万福寺へ出入りしているのを知らなかったのは、不埒である。よって、伊兵衛は過料(罰金)銭五貫文、喜兵衛・丈七は同三貫ずつ、半右衛門・惣右衛門・勝次郎・新右衛門・喜右衛門は「急度御叱り」を仰せつける。
一弥右衛門(犯人留三郎の兄)は、弟留三郎が酒狂の上、平左衛門に手疵を負わせ、疵が癒えるつもりで内済に致し、その上、留三郎は逃亡したので「永尋ね」を申しつけたところ、村内万福寺の弟子になり、石戸宿村放光寺の留守居として、折々万福寺へ立寄るのを知らないでいたのは不埒だから、過料銭五貫文を仰せつける。
一善右衛門(石戸宿村名主)・紋右衛門(同組頭)は、逃亡した者とは知らないとしても、太田ケ谷村万福寺の住職自証へ問合せもしないで、同村放光寺の留守居に蓮城坊を勤めさせたのは不埒だから、善右衛門は過料銭三貫文、紋右衛門は「急度御叱り」を仰せつける。
ちかの仇討は老中大久保加賀守(※註1)の知るところとなり、「お構いなし」(無罪)の判決を受けたあと、褒賞へと発展した。その件について、太田ケ谷村の地頭(※註2)丸毛一学(※註3)の家来は勘定奉行石川主水正(もんどのしょう)へ御請書(うけしょ)を呈出している。
御請書
主人知行(ちぎよう)武州高麗郡太田ケ谷村百姓喜右衛門女房ちか儀、十ケ年以前九歳の節、親平左衛門が手疵を受け、右疵にて相果て候後、逃げ去り候相手留三郎こと蓮城坊を討留め候段紛(まぎ)れなく、百姓の女房の身分にては奇特なる儀につき、「御構えなし」と仰せ渡され候。
右奇特の段、地頭において相応に誉め遣わし候よう致すべき段、大久保加賀守様御差図に御座候間、主人へ申し聞かすべく仰せ渡され承知畏み奉り候。仍って御請書件の如し。
文政三庚辰年十二月二十二日 丸毛一学家来芝田友右衛門
右一件御懸り
公事方御勘定奉行(※註4)
石川主水正様
御留役(※註5) 吉見義助様
前書の通り、石川主水正様御懸りの御留役吉見儀(ママ)助様にて、右一件、芝田友右衛門方へ仰せ渡らせ候。以上
巳(み)(文政四年)二十八歳 喜右衛門
十九歳 妻ちか
七十三歳 祖母いさ
四歳 娘なつ
地頭丸毛一学よう褒美として青銅(※註6)五貫文賜わる。
〔註〕
(1) 大久保加賀守忠真(ざね) 小田原藩主。文政元年(一八一八)より天保八年(一八三七)まで老中。
(2) 地頭 江戸時代には知行所をもつ旗本をいう。
(3) 丸毛一学 太田ケ谷村に知行所をもつ旗本。
(4) 勘定奉行 江戸時代、幕府直轄地の代官・郡代を監督し、収納・金銭出納などの幕府の財政をつかさどり、また、領内農民の行政・訴訟などを担任した。奉行には四人が任命され、勝手方と公事方とに別れていた。勝手方は会計関係をつかさどり、公事方は訴訟や仕置(処罰)を受けもった。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つ。
(5) 御留役 判事
(6) 青銅 銅と錫との合金だが、ここでは銭のこと。
(1) 大久保加賀守忠真(ざね) 小田原藩主。文政元年(一八一八)より天保八年(一八三七)まで老中。
(2) 地頭 江戸時代には知行所をもつ旗本をいう。
(3) 丸毛一学 太田ケ谷村に知行所をもつ旗本。
(4) 勘定奉行 江戸時代、幕府直轄地の代官・郡代を監督し、収納・金銭出納などの幕府の財政をつかさどり、また、領内農民の行政・訴訟などを担任した。奉行には四人が任命され、勝手方と公事方とに別れていた。勝手方は会計関係をつかさどり、公事方は訴訟や仕置(処罰)を受けもった。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つ。
(5) 御留役 判事
(6) 青銅 銅と錫との合金だが、ここでは銭のこと。