この伝馬助郷が起こった原因は、中山道の交通が著しく増加して、定助郷村々の人馬負担が過重になり、その村々の農民の生活を貧窮に陥れるまでになったので、新しく加助郷の任務を、街道から遠く離れた村々に命じたためであった。新しく加助郷を命ぜられた村々は、今までも重い課役に苦しんできたのに、これからの遠距離からの助郷にはとても耐えきれないという不平・不満が高まってきたのであった。それは遂に強訴・一揆へと強硬な手段に訴えたのであった。しかし、幕府のこの強引な押しつけの背後には、問屋や商人・地主・高利貸などの、利潤追求に飽くことのない連中が密かに幕府役人と結託して、かかる強硬な方針を選んだのだという推測があった。悪らつな彼らの利潤追求は、すでに幾度も繰返された周知の事実である。これが風説となり、ついに事実化してしまった。憎むべきは彼らと結託した強訴不参加の村々の名主である。こうして、当地に二人の犠牲者が出た。町屋村の名主半蔵と高倉村名主長三郎である。藤金村の熊坂伝蔵については後述する。
町谷村半蔵に先立ち、入間・高麗両郡の打ちこわし第一号になった上野村(越生町)名主弥左衛門宅の打ちこわし状況を述べる。
今度の村々蜂起は、中山道宿々の伝馬新助郷を仰せつけられたことを恨んで、どこから言い触らしたともなく、不参加の村は打ちつぶすか、または焼払えという風聞があった。上野村名主弥左衛門は不参加だから、閏十二月晦日(みそか)の午後六時頃に、どこの村から押し寄せたか分らないが、百姓三百人が押し寄せて、鯨波(とき)の声を上げた。それが午前三時頃には二千余人となり、長屋を初めとして、居宅・土蔵も残りなく、朝十時頃までに打ちつぶして、鯨波を上げて帰った。(「武上騒動記」)
町屋村名主半蔵の場合は、上野村と同じ閏一二月晦日の午後六時頃に、百姓二四〇~二五〇人ほどが半蔵方へ押し寄せてきた。これも「この度の伝馬助郷訴訟願いに不参加のため、百姓これを憤り押し寄するなり。」人数は夜一〇時頃までに七〇〇人余りとなって、鯨波の声を上げて打ちこわしが始まった。(同書)
もっとも、「狐塚千本鎗」では、半蔵は加助郷願いの発起人となっている。
高倉村名主長三郎の場合「三日の朝八時頃に、八方より鯨波(とき)の声を上げて、難なく長屋を打破り、居宅へかかり、敷板迄も剥(は)いで捨ててしまった。押し寄せた人数は六千余人であった。」(「同書」)
しかし、長三郎にも言い分はあった。騒動鎮定後、役人の厳しい吟味が行われたが、その席上、長三郎は次のように事情を述べている。
御伝馬を仰せつけられ、皆々一同まかり出なければならないので、金谷村の勘助と相談しました。その結果、御公儀様(幕府)から仰せつかったので、皆々御訴訟を申し上げることはできません。それで、半分は助郷を勤め、半分は御免下さるよう、先ず下書を書きました。ところが、一揆に参加した遠方の村々の者たちは、何と考えたのか、大勢で押し寄せてきて、迷惑至極に存じます。何れにしても、打ちこわされる覚えはありません。(田中家「明和騒動」)