一揆の形態には、小規模な逃散・代表越訴(おっそ)型一揆・惣百姓一揆・世直し一揆の四つの型がある。逃散とは領主の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に堪えきれないで村中の百姓が他領に逃亡することで、戦国時代から江戸初期にかけ最も多くみられた。代表越訴型は村役人などが村民を代表して、年貢の減免や政治の改善を、自分の領主をさしおいて、直接幕府へ願い出ることである。佐倉惣五郎の事件はその代表的な例である。この代表越訴型が少なくなると、その次には、惣百姓一揆が起こった。これは、強訴(ごうそ)・暴動型であって、元禄―享保からみられるようになった。幕末には「世直し一揆」が発生するが、これは貧富の差の平均を望む社会改革を目標とするもので、要求の中心は、質地の返還・貸借関係の破棄であり、行動の中心は、豪農や豪商の家や財産を破壊する「打ちこわし」にあった。惣百姓一揆では、百姓の中に名主も含まれていたが、ここでは村役人は一揆と対立する関係になっていた。それは、農民の階層が分化して、名主を始めとする村役人は、元からの地主であるだけでなく、高利貸・商人としての性格を色濃くしていたので、一般農民とは対立関係になったのは当然であった。