関東地方では、宝暦(一七五一―六三)頃までは、あまり目立つ百姓一揆はなかった。宝暦に入っても小規模な闘争が、孤立分散して、また自然発生的に起きた程度にすぎなかった。しかし、この明和の伝馬騒動をきっかけにして、天明(一七八一―八八)までに大規模な一揆がくり返し発生した。伝馬騒動の原因となったのは、幕府の役人が出願人と結託して、助郷と伝馬の大増加を計画したことにあったのだが、それは、新しく加助郷の差村となった村々の農間余業を圧迫し、農民からの収奪を一層強化しようとする乱暴な計画であった。この計画に反抗したのは、利害を共通にする上州・武州の全農民であった。幕領・大名領・旗本知行所の区々の支配領域を越えて、老人と女・子供を除く二〇万の農民が一斉に蜂起したのであった。このような蜂起を、今までの孤立分散した闘争と区別して「広域一揆」という。二〇万という大勢の農民といい、この広域といい、明和騒動は一揆の歴史のうちで画期的なものであり、「島原以来の大騒動」といわれる。杉田玄白も「近年諸国の騒動は、皆々公民どもの徒党にして、所の領主へ要訴するにて侍(はべ)りしが、是(これ)は夫(それ)に事替り、所の群盗の乱暴をなすなれば、真の一揆の兆(きざ)しなりと、心有るもの心無きも皆々眉をひそめたり」と述べて、「領主地頭の勢いは、何となく衰えて、下に権をとらるるに似たり」(「後見草」)と幕府諸藩の危機が表面化したことを指摘している。山県大弐は「右は兵乱のきざしに候よし)といい、米沢藩医藁科貞祐(わらしなさだすけ)は「そろりそろりと天下のゆるる兆(きざ)しも御座あるべく候也」と憂いている。
しかし、その時の打ちこわしの対象は、一揆の原因となった政策に加担したものや、参加を拒否した村役人に限られていたが、次の「世直し騒動」では、この限界を越えて、幕府や藩の権力的支配に公然と反抗するようになってきた。