(一) 打ちこわしの対象
表―48に打ちこわしの対象者一覧表を掲げておいたが、名主・組頭等の村役人が一〇九戸と最も多く、その他には高利貸・質屋がそれに次ぎ、つづいて穀屋・酒造であり、生糸商人(浜商人ともいう)も対象となっている。無差別破壊ではなく、一揆勢の打ちこわしのねらいがどこにあったのかはこれで判明する。
(二) 人命尊重
「百姓は百姓だけの趣意にて、世の見せしめのために不仁の者をこらすのみ。敢(あえ)て人命をそこなう得物(えもの)は持たず」(秩父領飢渇一揆)。「兵器をもちたるはなく、人を傷害(そこな)うこともなく、物を掠(かす)むる盗人にもあらで」(冑山防戦記)。「銘々晒(さらし)木綿の鉢巻・襷(たすき)を掛け、斧・鉋(かんな)・鋸(のこぎり)・棒・其外得物々々を携え(中略)誠に近世未曾有の騒災にこれあり候えども、不思儀に家内一人も怪我なく、相遁れ候」(扇町屋宿長谷部太七)。
打ちこわしの目的は財産の均等化にあって、あえて人を殺生することが目的でないことをその行動で実証したのであった。
(三) 財産の略奪・分配なし
「今日の賊民は屋室を毀(こぼ)つを以て主となし、財宝は陰に貪る者ありと雖も、陽に奪うことを禁じ、婦女は決して侵すことなし。」(秩父伊古田村中島家「賊民略記」)。また川越城主の家来の注進(報告)には「浪人体(てい)の者は相見えず、いずれも窮民の体にて、山支度・野支度にて帯刀の者これなく、打毀しの節、金銭等を奪い取り候ところを、悉く相廃(す)て」とある。
打ちこわしは、あくまでも富の潰滅であって、原則として、略奪したり、その場で分配したりしていなかった。その点では統制のとれた行動をしていたわけである。
(四) 年貢減免・諸役負担軽減の要求なし
打ちこわし勢の要求には、年貢を下げろとか、年貢以外の課役を軽くせよとかいう、領主に対する要求は含まれていなかった。これは一揆の標榜(ひょうぼう)する要求は、米価値下げ=米安売り・施米施金・質物質地の無償返還であって、敵対者は豪農・豪商であったからである。直接に領主に要求をつきつけて闘争するために結集したのではなかった。また、そのような政治的要求を掲げて領主と対決することは、徒らに軍事的弾圧を強化されるだけであった。そこに、この「世直し」一揆の戦術的巧妙さをみることができる。
(五) 浜商人
「横浜向け商人は大小に限らず、施行(せぎよう)(哀れんで施す)に拘(かか)わらず捨ておきがたく打潰(ぶつつぶ)し候」、また、「横浜へ乱入致し、国病の根を断ち、万民安穏の心願と申す事に御座候。」(秩父市岡家文書)これは、当時の異常ともいえる物価騰貴の原因が、開港、特に横浜貿易にあり、貿易にたずさわっている生糸商人が物価高騰をもたらす元凶であるとみなされたからである。この一揆で打ちこわされた浜商人三九人のうち、当地近在の者は次のようである。
高麗郡鹿山 藤太郎 名主・機渡世・薪伐出
入間郡小谷田 文平 名主・糸屋
〃 扇町屋 長谷部太七 年寄・生糸・酒造
〃 所沢 荻野亀次郎 糸屋・浜商人
比企郡 平 峯岸幸七 小惣代名主・太物・質屋・荒物
〃 玉川 町田五郎兵衛 小惣代名主・生糸改会所(?) 質屋
〃 日影 岡本又四郎 組頭・生糸肝煎・紙漉渡世
(以下省略)
この「世直し」一揆は、六月一五日に脚折村にもやって来た。しかし、名主佐平太は他村の村役人と同様に、一揆のオルグを穏やかに迎え、言われるままに人足を差し出したので打ちこわし勢の襲撃を免れることができた。佐平太はその模様を日記に詳しく伝えている。その記述を現代風に直して書くと次の通りである。
慶応二年諸用日記手控帳 脚折村田中佐平太
六月十五日 民家打ちこわし人が来るようなので相給名主の友左衛門方へ話しに行く。ところが先手の人数が高萩迄来たようだとの話だったが、すぐさま村へやって来た。そして、人足を差し出したかと尋ねたから、先刻差し出たと答えたので帰って行った。もう一度立寄って尋ねるので、前と同じ返答をした。すると、才領(世話係り)を何人出したかというので、伴五郎という者が出ていると嘘をついた。それですぐ帰宅して、相給名主と相談して早速人足を差出した。村中の大半が残らず出てしまった。すると又々オルグが来て人足を出したかと聞くので、ただ今出したといったので、立去った。
この日九ツ(正午)頃に、一揆勢が太田ケ谷村の重右衛門方へ行った。そして、百両と米百俵の施しを出すという証文を取ったそうだ。それから重右衛門の案内で村内の松吉方へ来た。ところが、松吉は帳面を出せと言われても、言うことを聞かず、勝手にしろと言ったので、怒った一揆勢は大勢で打ちこわしにかかった。そして金銀や米七俵、大麦二〇俵、小麦八俵、その他、餅米・挽割(ひきわり)等を庭中へ投げ散らした。それから、坂戸の方へ二手に分れて行った。広谷の方へは高倉村の平六殿が案内をして行ったそうだ。追々四方へ手分けして様子を見ると、先づこれで平穏になったと思われるので、酒二升買い、集ってきた村役人や近所の者へ出して、一杯飲んでもらった。それから皆の者が家へ帰った。
この夜九ツ(一二時)頃から大雨になって、人足共は帰ってきた様子なので、夜中に跡始末をした。
六月十六日 早朝から人足共が往来している。又々村内へ来る様子だから、手分けして握り飯を用意した。それを十王堂(じおうどう)と織右衛門の脇で差出すつもりである。自分は柳樽(朱塗りの酒樽)二本を用意して、村々から来た人足へ差出した。この夜、村から出した人足は大部分帰村した。
六月十七日 一揆勢は的場(まとば)村(川越市)の川原へ繰り出したので、人足を三〇人ばかり出した。川越の殿様が大砲を放ったので村々の人足は捕えられ、他の者は散乱した。そして村々へ引き返した。
この日夕刻、高倉村へ押しかけてくるとの情報があり、急いで村の人足を集めて、御用の品物を片づけた。もっとも手伝ってくれた人々へ酒と飯(めし)を差出した。
六月十八日 比企郡川島から三千人も押しかけてくる知らせがあり、大砲を用意して、両名主の家へこの夜から御用物の番人を三人ずつおくことにした。
六月十九日 平穏になった様子だが、大砲にたがをかけ、焔硝(えんしょう)を作った。九ツ時(夜一二時)迄にそれぞれ帰宅した。もっとも、織右衛門が酒を持参していろいろ指図をした。この夜、近所の手伝った者へ酒と冷麦(ひやむぎ)をご馳走した。
六月二十日 平八が江戸の旗本新見様・金田様の御屋敷へ届けに行く。こちらからも頼んでおく。この日、万次郎が高倉と藤金へ見舞いに行く。夕刻に坂戸へも行かせる。
六月二十三日 代官松村忠四郎様が御通行になり、御休みなので水・茶その他のものを差し上げる。そして村内の案内をした。
この日、浪人が来たので昼食を食べさす。万次郎は剣術を練習する。
六月二十三日 江戸へ行った平八が帰村した。新見様と金田様へ届けを納めたよし。
この日、「作揚げ正月」につき、正月ではない休息日だから、二五日から三日間にすることを申し次ぎにして伝えることにした。
貧民へ手当をするのは二五日午後より相談するはずである。
六月二十五日 今日より三日間の休息。
この日、鎮守の御殿で、窮民へ手当を遣(つかわ)わす。一両三分の出金があった。仔細は別紙の控えに記す。
慶応二年六月十五日乱暴人立入の節、人足名前書入帳
的場へ繰出し人
又四郎・常五郎・由太郎・民蔵・惣五郎・助次郎・米蔵 又次郎・万平・与市・留五郎・清次郎・文蔵・重次郎 卯助・茂吉・儀八・岩五郎・常次郎・栄五郎・鉄五郎 関次郎・亀次郎・秀吉・久蔵・伊三郎・源次郎・勇次郎 平吉・角蔵・鶴吉・倉吉・梅蔵・国五郎・□蔵 重次郎・芳太郎(三七人)
六月十五日繰出し
万平・要吉・茂吉・常五郎・秀五郎・浅次郎・亀吉 関次郎・惣五郎・文蔵・長蔵・梅五郎・久蔵・伊三郎 助次郎・源次郎・勇次郎・虎蔵・秀吉・常次郎・半次郎 平十郎・鉄五郎・倉吉・平吉・民蔵・仙助・由蔵 岩蔵・政次郎・又四郎・徳次郎・角次郎・栄次郎・清次郎 定次郎・重太郎・与市・鶴吉・儀八・卯之助・杢左衛門・太右衛門・留五郎・又次郎(四五名)
六月十六日 活花組という一揆の一隊から人足を三〇人出せということで、人数を調べた。
又次郎 □次郎 留五郎 織右衛門下男 善之助 仙助下男 〆七人
同日夕刻 辰五郎 浅次郎 善之助 仙助下男 佐市 〆五人
諸入用覚
一硝石六百匁 此代銀は二六匁二分 坂戸境屋
一硫黄(いおう)百二十目 此代銀一匁二分 同人分
一鉄砲焔硝(えんしよう) 又五郎
一同断 清次郎
一竹代 金三朱
一御神酒 一貫文
六月十八日 両名主方へ御用書物番
大工半次郎 寅次郎 政五郎 常五郎 源七
松吉方が打潰されたので、泊り
六月十五日 佐市 織右衛門下男
十六日 取込みで一人失念 権右衛門 杢右衛門
十七日 取込み失念
十八日 □左衛門 織右衛門 弥三郎