第六節 「世直し」一揆の意味

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 幕府が命運をかけて長州征伐に突入しようとする一週間前に、幕府の政治的・経済的な心臓部である大阪・江戸の都市民、あるいは畿内・関東の農民は、幕府への決定的な反逆に走り始めたのである。これは、幕府が民衆を保護し、統治する能力を失っていることを民衆自身が知っていたからである。
 大阪・江戸の打ちこわしにせよ、武州一揆にせよ、これらは、幕末になって各地に爆発した庶民蜂起の、単に代表的なものにすぎない。他にも、都市・農村に無数の騒擾が連続して起っていたし、また、騒擾に至らずとも、「世直し」の祈願をこめた民心の底流は各地に渦巻いていた。
 積もりに積もっていた民衆の不満や生活破壊は、我慢の限界を越えてついに爆発したものであり、生活の破壊がもはや避けられなくなった大多数の中・貧農層や都市下層民が、現在の秩序そのものに、黙って服従しえないところまで追いつめられていたのである。
 幕府や各藩が、支配者としての権威を守り、村落上層民の利益を守るため、おくれた体制を整えて、大砲・鉄砲まで持ちこんで、武器をたずさえない一揆勢に一斉に攻撃に転ずると、一揆勢はもろくも潰滅的打撃を受けて、わずか六日余りで解体した。
 「世直し」一揆の目的は、貧民の救済であり、不徳の財宝を蓄積する豪農・村役人に対して壊滅的な打撃を与えて、貧者も富者もない「世均し」の世界を実現することであったが、その目的の達成は瞬時のものにすぎなかった。しかし、ここに示された農民たちの不満や怒りは、たとえそれが幻想的なものであったとしても、根本的に「世直し」の世界を願う一時的な蜂起を起こさせてしまったのである。もちろん、彼らが新しい体制の具体的なプランをもち合せたわけではない。次の社会が封建制の連続か、資本主義社会への変革か、それは彼らの青写真に描かれていない。ただ平和で住みよい社会を望むだけである。慶応二年の「世直し」一揆に示された民衆のエネルギーを結集して明治維新へと押し進めたのは、知識層としての下級武士が、現実に雄藩に蓄えられた軍事力を背景にして、討幕運動に立ち上ったときであった。
  〔参考文献〕
  中山清孝『近世武州名栗村の構造』
  森安彦『幕藩制国家の基礎構造』
  大舘右喜『幕末社会の基礎構造』
  近世村落史研究会『武州世直し一揆史料』(一)(二)
  『鶴ケ島町史』近世資料編Ⅳ
  千代田恵汎「坂戸近辺の『世直し』一揆」(坂戸高等学校「研究紀要」第三号)
  『日本庶民生活史料集成』第六巻
  日本思想大系『民衆運動の思想』
  『新編埼玉県史』資料編11