第一節 事件の経緯

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 文久三年(一八六三)三月六日の日付で、道中奉行の都築駿河守峯輝と松平対島守正之の連名で御印状が、脚折村名主田中佐平太の手許に届いた。その回状を見ると次のような用件であった。
  御変革仰せ出され、諸家当主ならびに家族や家来・妻子等が国村へ引越すにつき、人馬多く入用なので、右通行の向きに限り、左の村々を中山道桶川宿へ〝当分助郷〟を申し付ける。それで、右の宿役人共から相触れ次第、滞りなく人馬を差出し、定助郷村々と平等に割合せ、相勤むべきものである。
   三月六日 駿河御印
        対馬御印
  武州比企郡   同州入間郡     高倉村
     北薗部村    戸口村    上浅羽村
     古郡村     関間新田   北浅羽村
     野本村     金田村    石井村
     今泉村     沢木村  同州高麗郡
     上下押垂村   今西村    藤金村
     下青鳥村    上吉田村   同新田
     葛袋村     西戸村    太田ケ谷村
     岩殿村     阿諏訪村   大塚野新田
     正代村     滝之入村   脚折村
     早又村     大谷木村   同新田
     熊井村     塚越村    三ツ木村
     大橋村     下浅羽村    右村々
     赤沼村     石坂村      名主
     奥田村     片柳村      年寄
     泉井村     同新田
  追って、この触書は品々相廻し、承知の旨を別紙で相添え、村継ぎで桶川宿へ相返し、それより宿送りを以て駿河守役所へ相返すべく候。以上
 御変革というのは、文久二年七月に一橋慶喜が将軍後見職となり、越前藩主松平慶永を政事総裁に任命し、井伊直弼以来の幕府の政治方針を刷新しようとしたことである。この政革の第一歩が、文久二年(一八六二)閏(うるう)八月二二日に発布された参勤交代制の緩和である。これによって、今迄の大名は、江戸と領国を一年交替で往来するのを原則とし、同時に大名の妻子は人質として江戸に留めることを強制されていた。この改革によって、大大名は三年に一年の在府、その他の大名は三年に一度で在府の期間も百日に短縮された。妻子も江戸におくも領国に伴うのも自由とされた。この改革は、表面は領国で防備に努めさせることを理由としたが、実はもはや参勤制を大名に強制させるだけの力が幕府に無くなったためで、大名が勝手に古くからの制度を破る前に、幕府が自分で緩めたものにすぎない。
 
 当分助郷については「伝馬騒動」ですでに述べたが、「桶川宿助郷事件」の文書に現われるのは、〝定助郷〟と〝当分助郷〟の二種類である。三月六日の触書で当分助郷の差村となったのは、比企郡では現在の東松山市と鳩山町に属する村々が大部分で、北薗部村が川島町、今泉村が吉見町に属している。入間郡では全部が坂戸市と毛呂山町に包合されている。高麗郡では鶴ケ島町内だけである。すなわち桶川宿近隣の村々はすでに定助郷となっており、それより西方遠く離れた村々が差村となったのである。脚折村の場合は、桶川宿から七里も離れた距離にあり、馬をひいて桶川宿まで歩くには、「金掘川・入間川などを越して、入間川や十時川(都幾川)・越辺川の三つの川が落合う釘無村を舟で渡り、その上に荒川の太郎右衛門の渡しを舟で越して、やつと宿方へ到着する」状況であった。しかも、指定された到着時刻はいつも早朝であり、前日出発しなければ間に合わない。往復三日を費やして、漸く一日の伝馬役を勤めるわけである。
 それにも増して一番困ることは、助郷の差日がいつも農繁期にあたることである。働き盛りの若者が三日もかけて桶川宿に出かけることは、「人馬の勤め方だけに昼夜を過ごし、更に農業を営む時間がなく、今年の年貢上納も覚束(おぼつか)なく、困りはてている」ことであった。
 次いで、三月二三日付で再び御触書が届いた。
  中山道宿の儀、去る酉(とり)年(文久元)御下向御用人馬継ぎ多端のところ、宿村滞りなく相勤め候えども、右勤め割り等の儀につき、相縺(もつ)れ、当節未だ取調べ中にこれあり候ところ、今般御上洛(※註1)につき、御用物、その外御供方、御三家始め諸家(しよけ)家族、在所へ引移り等にて、継ぎ立て相嵩(かさ)み候につき、「当分助郷」申しつけ、相勤めさせ、御上洛後、右家族引移りの面々差湊(そう)じ、夥(おびただ)しく宿助郷難儀に候趣き相聞く。尤も、還御御移りにも相成り候については、家族引移り等の通(とうし)人馬(※註2)(は)相対雇いの積(つも)り、其の向々へ相達し候儀にて、宿・助郷疲弊に及ばざるよう、御所置(しよち)これあり候間、御趣意の趣き厚く相心得、宿法により、助郷人馬の勤め割り・賃銭渡し方等、正路(せいろ)(正規の道)に取斗(はか)らい候はもちろん、後日、勤め割りその外違(異)論これなきよう、宿役人・定助郷・当助郷の村々惣代の者申し合せ、念を入れ、都(すべ)て正実潔白に取斗らい申すべきものなり。
   亥(文久三年)三月廿三日 駿河御印(※註3)
             追書山城
  〔註〕
  (1)この年二月三日に将軍家茂が上洛したことを指す。しかし家茂は東海道を西上したので、その御用物と御供の一部が中仙道を通ったものと思われる。
  (2) 宿場の人馬を利用しないで、お雇いの人馬を出発点から到着点まで使うこと。
  (3) 勘定奉行一色山城守と大目附都筑山城守。道中奉行は勘定奉行と大目附のうちから一人ずつ兼職する。

 
 三月六日の道中奉行から、中山道桶川宿へ当分助郷を申しつける旨の御印状が届くと、四月二日には桶川宿役人から急廻文が継ぎ送りされてきた。
  急廻文を以て御意を得申し候
  今般御変革を仰せ出され候につき、御印状(※註1)相廻し申すべきところ、墨がついて汚れないよう、写しをお達し申し候間、名主・組頭・百姓代の判を持参、拝見のため村役人の内お一人、早刻御出張なさるべく候。この廻状は村名の下へ請印をいたし、刻(時刻)を書き付け、早々順達し、留村(最期の村)より御返却なさるべく候。
   亥四月二日   桶川宿年寄 信蔵
    巳上刻(午前十時)  同 七郎右衛門
               問屋 源三郎
          太田ケ谷村
          脚折村
          同新田
          三ツ木
          藤金村
          同新田
          大塚野新田
        右村々御名主中
   覚
  一人足弐拾五人 馬壱匹 太田ケ谷村
  一人足弐拾五人 馬壱匹 藤金村
  一人足弐人       同新田
  一人足三拾四人 馬三匹 脚折村
  一人足三人       同新田
  一人足弐拾四人 馬壱匹 三ツ木村
  一人足五人       大塚野新田
  右は当四月三日、江戸本郷御守殿(※註2)溶姫君様御儀、加賀中納言様御国許へ入らせられ候に付、当宿御通輿遊ばされ候に付、嘉永二酉年寿明君(※註3)様御下向の振合を仰せ出され候に付、大宮宿御旅館より鴻巣御旅館迄、御継通し(※註4)相成り候間、人足、明三日夕七ッ時(午後四時)迄、刻限相違なく、上下才領(※註5)附添い、当宿会所(※註6)へ着の上、明後四日大宮へ詰め候に付、この段御申しつけ遣わさるべく候。御配符(※註7)刻付(こくづ)け、早々順能く御順達、留村より御返却なさるべく候。以上
 亥(文久三年)四月二日   桶川宿
            問屋 源三郎
            年寄 七郎右衛門
         右村々
           御名主中
 〔註〕
 (1) 道中奉行の実印を押してある指令書
 (2) 御守殿とは三位以上の大名に嫁した将軍家の女。ここでは加賀中納言前田家に嫁した溶(とく)姫のこと。
 (3) 寿明君は一条殿御姫君のこと。嘉永二年九月一五日京都発、一〇月一日上尾宿に泊る。二日板橋宿泊り、三日に江戸城に入る。(「上尾宿小川家文書」)
 (4) 大宮宿から鴻巣宿まで直行して、上尾宿・桶川宿の人馬を利用しないこと。
 (5) 人足の取締りをする人。
 (6) 助郷惣代が事務を執る場所。助郷触に加判したり、助郷人馬に渡した札数を確認したりして、問屋の仕事を監視する。
 (7) 助郷人馬を徴収する命令書、もしくは催促状。

 
 次いで四月五日に触状が来た。
    覚
  四月六日明六ッ(午前六時)詰
  一人足拾八人      脚折村
    (他村々略す)
  右は本郷御守殿溶(とく)姫君様御添役人中様、其外跡荷物多分御通行に付、人馬割りいたし差遣し候間、刻限相違なく、才領差添え、問屋会所へ相詰め候よう、御申しつけなさるべく候。尤も、配符早々順達、留め村より御返却なさるべく候。
   亥        桶川宿
    四月五日      問屋 由三郎
              年寄 七郎右衛門
 このように、桶川宿からの助郷触れあては一日ないし二日おきに絶えず廻ってきた。脚折村名主佐平太の「助郷覚書」によると、大略次の通りである。
    文久三年
  四月三日 夕七ッ(※註1)詰 三四人 馬三匹 御守殿溶姫
  同 六日 明(あけ)六ツ詰 一八人 同御添役人・跡(あと)荷物
  同 同  暮六ツ詰 一八人 跡荷物・諸家家族・家来
  同 八日 明六ツ詰 一八人 竹腰竜君縁女(※註2)・御勘定北村泰蔵・御目付大井美濃守・その他諸家家族
  同 九日 明六ツ詰 一八人 松平陸奥守先荷物・その他諸家家族・御守殿長持
  同 十日 暮六ツ詰 三六人 御守殿跡荷物・松平陸奥守御通行
  同十二日 明六ツ詰 一八人 御守殿跡荷物・松平陸奥守後日御荷物・其他諸家様多分御通行
  同十二日 暮六ツ詰 一五人 松平陸奥守跡荷物・御守殿跡荷物・其他諸家様多分通行
 五月 三日 暮六ツ詰 四八人 尾張大納言上京
 (五月)  農業繁多の時節につき当分見合せ
 六月一六日 助郷免除の歎願書提出
  同二六日 暮六ツ詰 二四人 将軍上洛御用御供方、中間頭・書院番頭・その他
                右触・六月二七日夜亥刻(十時)到来仕候
  同二七日 暮六ツ詰 二四人 還御につき御小納戸・講武所・千人頭・並、御組中様・その他多分御通行
  同二九日 明六ツ詰 二四人 上洛相済み還御につき、御用御役々様方、その外御家族様多分の御通行につき此頃、助郷村が定助郷・定加助郷・増当分助郷に分れる
  同 同  暮六ツ詰 二四人 上洛御用御小姓組番頭・御組番衆・その他諸役々方
                  此頃、定助郷・定加助郷・増当分助郷と助郷村を三種類に分ける
 七月 一日 暮六ツ詰 二四人 上洛御用方御帰府御役々様方
  同 三日 明正   二四人 御用御役々様方
                六月二九日詰、七月朔日暮六ツ詰、弐通壱包にて、六月二九日夜子上刻、関間より受取留り
  同 同  暮六ツ詰 二四人 御用役々様方
  同 五日 明正七ツ詰二四人 上洛御用御役々様方
  同 六日 明六ツ詰 二四人  同
  同 七日 明正   二四人  同
  同 九日 明正七ツ詰二四人  同
  同十一日 暮六ツ詰 二四人 上洛御用、御高家衆、その他御役々様方
  同十七日 明正詰  一二人 御用御役々様方
  歎願中につき、御沙汰次第に仕るべく候
  八月二一日 夕七ツ 二四人 大坂御番衆中様
  同二二日 夕七ツ 二四人 同
  同二三日 夕七ツ 二四人 同
  〔註〕
 (1) 明六ツは午前七時、暮六ツは午後六時
    明七ツは午前四時、夕七ツは午後四時
 (2) 男女は結納(ゆいのう)の取かわしによって縁夫・縁女となり、結婚式をあげて夫婦となる。

 
 「御上洛のための御用物、その他供(とも)方」とあるのは、将軍家茂(もち)が尊王攘夷派の気勢のあがる京都に乗り込んで、荒れ狂う攘夷の嵐を鎮圧しようとしたことを指す。総員約三千人の幕軍を率い、文久二年二月一三日に江戸を出発して、三月四日二条城に入った。その時の道は東海道を西上したので、中山道とは直接関係はなかった。「上洛相済み還御につき」というのは、家茂は上洛の目的を果せないまま、ほうほうの体で江戸へ帰ってきたことを言っている。その時は六月九日京都を出発して海路江戸へ帰った。
 六月二六日から始まった将軍上洛御用御供方というのは、海路帰府した将軍の汽船に同乗できない幕臣の一部が中山道を下って行ったものであろう。すると、桶川宿に集まった助郷人夫は、桶川宿から大宮宿へ幕臣を運んだことになる。
 
 四月三日から始まった当分助郷村々からの桶川宿への人馬徴発は、その後も隔日に連続した。このような重なる人馬の負担は、遠隔でしかも戸数の少ない当分助郷村々はとうてい堪えることはできなかった。脚折村の戸数は六七戸で、男一六九人中、一五才以上、五〇才未満は五六人であり、連日指定される二四人の人夫は、三日連続の重労働に堪える壮丁の四三パーセントである。それでは、毎日、助郷役を勤めるようなものである。
 武蔵野西端に位置する「貧地極窮」の村方で、助郷のため「一村亡滅退転」を眼前にして、脚折村名主を始めとする村役人や小前は歎願書を提出して、助郷免除を願い出た。
   恐れながら書付を以て御歎願申し上げ奉り候
            新見伊勢守知行分 脚折村
                    名主佐平太
          坪内源五郎知行所 同所
                    名主 友左衛門
 武州高麗郡脚折村小前・村役人惣代、左のもの共申し上げ奉り候。当村の儀は三給入会い、合高四百八拾石八斗、武蔵野新田付き、山寄り野方、極めて辺鄙(へんぴ)の土地柄、殊に赤土場に付、諸作実法(みのり)よろしからず、其の上、用水掛り等これなく、天水のみを以て田場相養い候ゆえ、聊か照り続きの節は忽ち旱損に及び、年々百姓ども弁納(※註1)勝ちにて、既に近来潰れ退転のもの出来、難儀罷りあり候折柄、御変革仰せ出だされ、諸家様御国邑(むら)行き御継ぎ立て多く、御遣い払い相成り候由を以て、中山道桶川宿より当村その外をも差村(さしむら)(※註2)にいたし、「当分増助郷」願い上げ奉り、即ち御印状を以て人馬差出し方仰せ触れられ、承知畏(かしこ)み奉り、難渋ながらこの程まで触れ当ての人馬、それぞれ差出し、相勤め候えども、当村の儀は桶川宿へ道法七里程も相隔り、殊に右道筋の内、金堀川・入間川等を打越し候上、なお右入間川・越辺川・十時川(都幾川)等の三川落合い候箇所を打越し候上、なお荒川太郎右衛門渡船等打越し、漸く宿方へ到着いたし候程の義に付、その場までにすら人馬悉(ことごと)く疲労に及び候えども、宿方においては更に斟酌(しんしやく)いたさず、御印状面に相振り候御継ぎ立ての分をも、御変革御通行の向きへ打混じ、多分の人馬遣い払い、加之(しかのみならず)、如何の子細か相知れず何度も折り返し相勤めさせ候につき、飯食いたすべき間合いもなく、病人出来、居村へ連れ戻し、療養等まかりあり、就中(なかんずく)、当村の義先月中より疫痢両病(※註3)にて、僅かの人数過半相煩らいおり、旁以(かたがたもつて)、この上人馬触れ当て候とも、とても勤め続くべきようこれなく、差当り右体御継ぎ立ての事にのみ昼夜を過し候故、農事は悉く皆手淡(うす)に相成り、とても是迄の姿にては、一村亡滅退転は眼前、当惑難渋の余り、恐れながら貧地極窮の始末、左に申し上げ奉り候。
  一当村の義は、三給入会い、合高四百八拾石余、家数六拾壱軒、内、後家暮し拾三軒、村役人八軒相除き候えば、小前四拾軒、この分老幼・女子供、病者等差引き、用立ち候もの僅かならではこれなく、就中、前条桶川宿へ出張手強く遣い立てられ、当時病中医療まかりあり候ものこれあり、加之、当村方の儀、去る酉年(文久元・一八六一)五月中より七月まで、疫病流行いたし、家毎に煩らい、田畑を荒らし、その上去る戌年(文久二)も同様疫病相煩らい、既に上納辻(※註4)にも引き足らず、旁た以て、今より何ようの触れ当てこれあり候とも、差出すべき人馬に手支え、当惑難渋まかりあり候義に御座候。
  一当村の義は、前郡辺鄙(へんぴ)赤土場、殊に用水不弁の土地柄、多分の肥し相用い候ても、諸作実法(みのり)方よろしからず候に引き換え、取箇筋(とりかすじ)(※註5)は格外の高免(※註6)に付、無難の年柄にても、作毛(げ(もう))(※註7)のみにては年貢納め方に引足らず候故、農間山稼ぎ等を相励み、上納足し合いにいたし、漸く当日を相営み罷(まか)りあり候義のところ、前条桶川宿へ人馬差出し相勤め候故、農事はもちろん、農間稼ぎ等致すべき間合い更にこれなきに付、当今にては既に夫食(ふじき)の手当もこれなく、この上人馬差出し候ようにては、百姓ども銘々飢渇退転の外これなく、当惑難渋の儀に御座候。
   右の通り極難必至の村方、殊更(ことさら)、三給地頭家向等御変革仰せ出され候に付、知行所村々へ引越し方の義(※註8)、先達ってまでは、道中筋宿助郷の人馬を以て継ぎ立て相成り候義のところ、当時農繁中に付、諸向き手人足を以て、通行の仰せ出だされこれあり候に付、銘々引移りの人馬はもちろん、三給地頭より陣屋取立ての人足等も、知行村々へ申しつけられ、その上、歩兵人足(※註9)儀も村高相応に引上げられ、かれこれ以難渋に付、助郷勤め方人馬雇い揚げの義も、桶川宿役人どもへ掛合い候ところ、多分の賃銭差出さず候にては引受け相成り難き旨申し聞かされ候を以て、前郡極窮の村方、差向き出金方行届かず、殊に同宿の人馬勤め中の義も、一日勤めは前後三日の勤めに相成り候程の義に付、旁(かたがた)以てこの上人馬差出し候ようにては、忽(たちま)ち亡村退転、終には道路に彳(たたず)み袖乞い致し候よう成り行くべきは眼前、何とも不便(ふびん)歎かわしく存じ奉り候間、恐れ多きを顧みず、この段御愁訴申し上げ奉り候。何とぞ御憐愍(れんびん)を以て、前段逸々(いちいち)御賢察の上、桶川宿助郷の義は、これまで限り御免除なし下しおかれ候よう、偏(ひと)えに御仁助の程願い上げ奉り候。以上
      新見伊勢守
      金田貞之助 知行所
      坪内光太郎
               武州高麗郡脚折村
   文久三年          小前村役人惣代
     五月(※註10)      右伊勢守知行分
                  名主 佐平太
                  組頭 次郎右衛門
     道中御奉行所様
 前書の通り御歎願申し上げたく存じ奉り候間、何とぞ御慈悲を以て、御差出し成し下しおかれ候よう、願い上げ奉り候。以上
                    右 佐平太
   五月九日               治郎右衛門
  御地頭所様御役所
 〔註〕
  (1) 本人に代って他人が貢租を納めること
  (2) 助郷を指定された村
  (3) 疫痢両病のうち疫病は伝染性の熱病、痢病は烈しく下痢する病気。
  (4) 辻は合計のこと。年貢の合計の意。
  (5) 田畑に課された年貢。他の年貢は含まない。
  (6) 江戸時代の年貢は石高に対する一定の割高を定めて、本年貢を課した。この石高に対する一定の割合のことを「免」といった。高免とは、この割合が高いことをいう。現在の高率と同じ。
  (7) 作物のこと
  (8) この時は大名だけでなく、旗本の妻子までも自分の知行地へ引越したので、江戸を離れて中仙道を通行する貨客が毎日陸続と絶えなかったのであろう。また、それを輸送するために、おびただしい人馬を必要としたのであろう。
  (9) 文久元年に幕府が課した一種の兵役のこと。兵賦ともいう。旗本の知行地から一七歳以上四五歳までの農民を選抜して差出さして、歩兵組と称する銃隊を組織した。しかし結局は金納化し、兵賦金を上納した。
  (10) この歎願書は五月には出来上っていたが、実際に提出したのは六月一六日である。