1 天災

448 ~ 449
 安政二年(一八五五)十月二日に、あの有名な「安政大地震」があり、マグニチュウド六・九に及んだ。「元禄十六年(一七〇三)以来の大地震で、今夜四時より明方までに三〇余度震い、十月中に一二〇度に及んだ」(斎藤月岑『武江年表』)。「俄かに家鳴り震動して、立ちどころに崩れかかり、梁(うつばり)くじけ、柱折れ、その物音は雷霆(らいてい)(烈しいかみなり)よりもすさまじく、魂は中天に飛び、あわてて二階を下らんとすれば、梯子(はしご)おどりて下ることならず、狼狽(ろうばい)して転がり落つれば、巨材その上に挟まれて自在を得ず、叫べども助くる人なく、呼べども応(こた)うる人なし。またたく間に火起こりてその身に迫る。危うくして遁れ出でたるも途方(方向)を失い、煙にむせびて道路に倒れ、息絶えたるもあるべし」(同書)。これを普通「江戸大地震」というが、これだけの地震なら、当町内でも同じ程度に震害を受けたはずである。村役人は「民家多分に打潰れ、就中(なかんづく)、出火・類焼の家等もこれあり」と簡単な記述に留めている。
 翌安政三年には風災に襲われた。「八月二十三日微雨、二十四日、二十五日、続いて微雨、二十五日、暮れて次第に降りしきり、南風烈しく、夜十一時よりは殊に甚しく、近来稀なる大風雨にて、喬木を折り、家屋・塀・垣を損う。‥‥人家所々潰れたる数うべからず。‥‥今年の風雨は江戸中一般の大破にて、家潰れ傾かざるも、屋上の板天井の板をも吹き散らし、甍(いらか)を重ねし家々は殊にゆがみ倒れ、山林には喬木折れくじけ、草は一夜に枯れ萎(しぼ)みたり」。(同書)この暴風雨も江戸と同じく脚折村も襲った。村役人の叙述は次のようである。「翌安政三年風災にて、又々、民家吹倒れ候義はもちろん、立木の根返り等相成り候ほどの義につき、諸作とも皆無同様の損亡に及び」。という状態で、農村では作物が全滅的な打撃を受けて、収穫が皆無に近いことを強調している。
 次には、伝染病が毎年のように引続いて発生したことである。
  安政三年 五月から八月まで疫(えき)病(流感か腸チブス)流行。
  同 四年 同様悪病流行。死亡人を出す。
  文久元年 五月から八月まで疫病流行、家毎に煩(わず)らう。
  文久二年 疫病または麻疹(はしか)で病臥する。
  文久三年 疫痢(えきり)両病(腸チブスとコレラか)で、人馬が過半相煩う。
 この記録は『日本災異志』(疫癘(れい)の部)によると次のようになる。
  文久二年 六月中旬より閏(うるう)八月下旬、諸国麻疹大流行。人多く死す。
  八月コレラ病流行。
  この年、夏より麻疹大いに各地に流行し、漸く消滅せんとするに際し、コレラ病発生し、殊に麻疹の流行したる地に甚しく。加之(しかのみならず)、麻疹を患いたる人に多し。
 このような悪疫(麻疹・腸チブス・コレラ)が三角波のように襲つてきては、当時の農村としては神仏へ祈る以外には打つ手はなかった。「右のように三か年相煩らい候うち、当国中山道大宮宿氷川明神の神主岩井伊予を相頼み、村方へ参り祈願いたし、且は、当国多摩郡御嶽(みたけ)山御師(おし)等を相頼み、これまた村内へ差招き、祈願仕り、諸山祈祷いたし、医療等も種々差加え、所持の田畑を売払い候ようの次第で、中には居宅の雨漏り等これあり候ても修復いたすべき手当もこれなく、余儀なく立朽(く)ちに相成り候族(やから)(者ども)もこれあり、かつ又、御年貢上納にも差支(つか)え、所持の田畑を質地にいたし、または売払い、御年貢を上納いたし、医薬等々を相用い、退転(落ちぶれてその地を立ち退く)の者も多分に出来、難義にまかりあり候」