当町を南北に走る日光街道は、八王子千人同心が日光東照宮の火の番を勤めるために往来した街道である。一人の千人頭に率いられた同心五〇人が夏と冬に交代してこの街道を歩いて行った。往路の第一日は、八王子から九里六町を歩いて、第一夜の泊りは坂戸宿であった。日光からの帰路も三泊四日の距離だから、最後の四日目に脚折村を通ったことになる。御朱印状を携帯する千人同心が、二百年の長きにわたって、八百回もこの街道を往来したわけだから、不時の災厄もまた避けられなかった。脚折村の村役人はぼやいて次のように記している。
日光御番の交替は、高萩村より坂戸村へ継ぎ送り、当村の義は右両村の間にこれあり、前書申し上げ奉り候通り、村内進退(管理)の道三十町も御座候うち、双木(なみき)附きの場所二十町も御座候ところ、双木の木の根が高く張リ出し、御継ぎ立ての節、重荷等を附け候馬の足運び方よろしからず、木の根へ怪我(けが)(?)候わば、馬は膝を打ち、乗りおり候御方が落馬等に相成り、御怪我これあり候義も度々御座候につき、当時役人を右の場所へ御呼び出し等もこれあり、それぞれ御薬用等の御世話もいたし差上げ候義、かつ、怪我馬の義は先方へ引取り、当村より代り馬を差出し、継ぎ送り候ようの義も度々これあり候につき、御通行前に木の根を削り取り、道普請等もいたし候えども、多分の木数ゆえ、年々削り候ても張り出し、中々は(ここで終る)