脚折村は御拳場(おこぶしば)ではなく、捉飼場(とらえかいば)であった。御拳場は将軍が冬に鷹野に出て、自分で鷹を拳にすえて、鶴を狩り捕えることを御拳といい、この猟場を御拳場といった。ここは禁猟区で鳥をおどすことも厳禁された。しかし、慶応三年に鶴と白鳥を除いて解禁された。捉飼場とは将軍家御用の御鷹を飼養し、あるいは繁殖させることをいい、御留野(とめの)ともいった。その責任者には名主中の有力者をあてた。脚折村には「鷹野屋敷」という地名が残って、その名残りを留めている。この御鷹御用も村の悩みの種であった。
御鷹御用を相勤め候義にて、年々四月上旬より五月までの内、御廻村の御旅宿にも相成り、その外、御継ぎ立て人馬等も、御廻村の時は多分御遣い払いに相成り候義に御座候。年々三度も御廻村もこれあり、農繁の時期のみにて悉(ことごと)く難渋仕り候。
鷹匠や鳥見が横暴な態度で百姓に臨んだことはよく知られているが、徳川家康が言った言葉として、「随分威を張るがよし。百姓の気ままなるは、一揆を起こす基なり。さればとて、鷹匠・鳥見はた代官が、非法の挙動をすることを捨ておかば、百姓の難儀になれば、難儀にならぬほどにして、気ままをさせぬが百姓共への慈悲なり(※註1)。」といった話は有名である。これは、鳥見の役割が、代官と同じく、農民の検察を兼ねていたことを暗に示している。
明和二年(一七六五)、「伝馬騒動」の余波で一揆勢に打こわされた紺屋村の鳥見(※註2)彦四郎は、次のように記されている。「御鷹場野廻り役相勤め、野扶持(ふち)頂戴して、常々大刀を帯び、御鳥見なりと号し、御鷹来り候節は、つけ廻り、肩をいからし、常には右々所々にて、少しの事を見つけ、咎めかけ、ゆすりはたき、威を振い、廻り場の村々より歳暮・年頭・貢物・金銭を請け、勝手は能き者なれば、別けて人の悪(にく)み強し(※註3)」
〔註〕
(1) 「東照宮御実紀附録」
(2) 将軍が放鷹するときに、鳥のいない所へ案内しないよう、鳥の所在を探索追跡するのを職務とした。手当として野扶持と伝馬金を貰った。野扶持は野良へ出て人夫を使う費用。伝馬金は旅費にあたる。
(3) 「武上騒動記」