第三節 事件の発展と帰結の経緯

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 当分助郷の差村となった「貧地極窮」の脚折村は、四月三日から隔日に触れてくる人馬差出の重課に堪えかね、「一村亡滅退転」を必至とみて、六月一六日には、当分助郷免除の嘆願書を道中奉行に提出したことは、前述の通りであった。これとは別に、比企郡一四ヵ村、入間郡五ヵ村の惣代は会合して、問屋役人を糺弾するための議決を行っている。その要旨は、(一)御印状によると、人馬の触れ当ては定助郷と当分助郷とは平等に取扱うべしと書いてあるのに、不平等の割当をする理由は何か。(二)三月中の御触書に、宿役人と定助郷・当分助郷の惣代が立会い、正実潔白に決定すべしと仰せられているが、御触書の趣意が実行されたのであるか。(三)当分助郷四一ヵ村の中には、雇い替えにより人馬を勤めている村もあるのだが、その記録を目締(ひじめ)帳に記入してあるのか。(四)「当三月朔日、勤め埋め申すべし」と御下札に書いてあるが、その勤め方とは何を指して言てっいるのか。
 この議決によって一九ヵ村の惣代が桶川宿役人と交渉した次第は、脚折村がこの議決に参加していないため、記録は残っていない。しかし、六月に入ると当分助郷村々の触れ当に対する対応が、一種のレジスタンスとして現われてきた。
   六月廿六日暮六ツ詰(午後六時)
   六月廿七日申中刻(午後五時)拝見仕側 片柳新田
   六月廿七日戌上刻(午後八時)拝見仕候 関間新田
   六月廿七日申上刻(午後四時)拝見仕候 大塚野新田
   六月廿七日西上刻(午後六時)拝見仕候 脚折村
  村役人共出府嘆願中に御座候。御沙汰次第に仕るべく候。
  亥上刻(午後十時)拝見仕り候
 御触れでは、六月二六日午後六時には、桶川宿会所に詰めていなければならないのだが、その廻状を村役人が拝見したのは、翌日の午後四時から八時までの間である。これでは人馬の御勤めのできないのは当然である。
 このような巡達の遅れは二六日だけではなかった。二七日、二九日、七月朔日、七日、九日、一一日と連続して巡達が間に合わない。これは明らかに当分助郷村々が、サボタージュ戦術に討って出たからであろう。
 ところが、さしも頻繁に往来した貨客も、七月一五日には幾分か減少してきた。同日付けで問屋から廻状がまわってきた。
 「今般御通行、追々薄らぎ候様子にこれあり候間、帳面類を取調べ、御目にかけたく候間、御最寄(もよ)りの惣代なり、又は一ヶ村にても、事柄の相分り候御仁、当宿問屋会所へ御出張なさるべく候。」と書いてある。これは、今迄帳簿類を整理しなかったことの報告であり、当分助郷村々は何の報告も知らされずに、ただ人馬を提供していたことになる。
 八月一〇日には、次の廻状が届けられた。
   前々より、定助郷・増助郷の御勤め方、平等に致すべき御触もこれあり候間、増助郷村々の内、三、四人惣代を御差立て、定助郷惣代立会いの上、人馬触れ出しなさるべく候。右につき、来る十九日、一村限り御村役人の内、御一両人ずつ当宿問屋方へ御出向なさるべく候。その外御談判申したき儀御座候間、右日限相違なく御出席なさるべく候。
 これは、今迄は問屋役人と定助郷とが、増助郷に何の相談もなく、独断的に人馬を触れ当てていたことを示唆するものであり、この点が、増助郷村々が不公平な割当であると、問屋役人に対して不信を抱いた原因であった。この時期になって漸く問屋役人にも反省の色がみられるのである。
 ところが、九月二九日に道中奉行(兼勘定奉行)一色山城守直温から差紙が届いた。
   御尋ねの儀これあり候間、一同早々出府相届くべく、不参においては曲事(不正なこと)たるべきものなり。
 これは、桶川宿役人と定助郷惣代が道中奉行に出訴したものである。この訴訟は文久三年(一八六三)九月二九日から始まって、延々明治元年(一八六八)一二月まで五年間続いたのである。もっとも、当分助郷の御勤めは、一一月二六日に免除の触書が到着した。
 問屋役人が訴訟を提起した目的は、奉行所の申付によって、助郷不勤のため蒙った損害を弁償させようとすることにあったのだが、結局はこの雇替金の金額が争点になったのであった。問屋の要求は村高百石につき五両の割合で弁済せよというのに対し、脚折村は三両しか出せないと主張した。しかしこの問題の背後には両者共に強力な団体が控えていた。問屋側には、利害を共にもつ定助郷村々がいて、当分助郷村々の負担が過重なものとは思っていないし、また、当分の助郷三一か村は一致して過分な示談金の支払いを拒否したからである。当分助郷村々の強硬な態度の裏面には、問屋役人に対する根強い不信感があった。比企・入間当分助郷一九か村が「議定一札之事」のなかで議決したのは次の項目であった。
 一、問屋の触当が正実潔白とは信じがたい。
 一、遣い払い人馬の数が、果して正確に記録されているのか。
 それで、当分助郷村々は問屋に対して、人馬日締(ひじめ)帳と先触帳を見届けさしてくれと、再三迫るのだが、問屋の返答は、両帳とも奉行所に提出してあるから、それは迷惑だと、披見を拒否する。
 先触帳とは、公用またはそれに準ずる旅行者のある場合に、旅行に先立って、江戸伝馬町伝馬役馬込勘解由(まごめかげゆ)から、目的地の宿まで通達される帳簿である。それには必要な人馬数と日程が記入されているので、宿場ではそれに応じて人馬の用意をする。人馬が不足のときには、助郷に触れ当てて補充する。それでこの帳簿は伝馬役から通達された正確な予定表である。これに対して、人馬日締帳は問屋の毎日の記録である。問屋場には記録掛りの〝帳付〟がおり、荷物数や行先、どこの人馬で輸送したかを一々記帳する。それを集計したのが人馬日締帳である。
 この両帳の閲覧を許すと、問屋の不正が直ちに露顕する。
 文久三年一〇月二〇日の脚折村名主佐平太の日誌によって、当分助郷村々の宿方対策の模様を記す。
   今川橋成田屋又蔵方へ集会これあり、村々申す義、只(ただ)今示談申入れ候はば、すべて宿方増長いたし、よろしくこれあるまじく候。殊に昨日、吉田・片柳新田・大塚野等吟味下げ差出し候ところ、御差戻しこれある間、ひと通り御調べを受け候上、示談を申しつけ候はば申し談ずべき旨申し候。
   尤も、村方などは何れも口出し申さず候。その節、居合す村方は、正代・葛袋・青鳥・岩殿・熊井・赤沼・戸口・今西・金田・脚折、外に上下浅羽まかり越す。
 一一月五日には宿方の非分(道理にあわない)な態度を難詰している。
   この日九ッ半時(午後一時)金田村三人にて腰掛へ行く。村々は日延べを願い仕り候につき、助右衛門殿と談しの上、外村なみに日延べ願を仕り候。尤も、吉田・大塚野・片柳・押垂(おしたり)・古氷(ふるごおり)・萱部(ママ)・早又・塚越相済み候由。かつ、正代・葛袋・青鳥・岩殿等は破談になり、御唸味を受け奉り候ところ、宿方は逸々(いちいち)申分相立たず、日〆帳披見の義致させ候よう仰せ渡され、腰掛にて懸合(かけあい)候ところ、行届き申さず。なおまた再応御吟味を受け候ところ、いよいよ以て、宿方の申分相立たず。日延べ願を書き差上げ申し候。夕六ッ半時(午後七時)。
 文久四年四月五日付の書面を見ると、この先触帳と日締帳を見せまいとする問屋方と、見なければ真相が分らないとする当分助郷方との争いは、奉行所を介していつまでもつづく。
   御先触帳ならびに日〆(ひじめ)帳は(奉行所へ)差上げおき候につき、庭帳・配符帳の両帳を見届けさせ申すべき旨申す
というのが問屋の態度であり、これに対し、御触れの「正実潔白」に、定助郷・当分助郷を平等にとの趣旨に反して、過分な触れ方を致し不埒だとする当分助郷村々の反駁(はんばく)は、
   右両帳にては何分相分り申さず候間、御先触帳ならびに日〆帳を御下げ願い上げ奉り、披見仕りたき旨申し聞かせ候ところ、(問屋は)御下げ願い見届けさせ候義は迷惑の由申す。(村方は)左候ては何分立会い詮(せん)なく(無益に)候。(中略)何とぞ御慈悲を以て、前書日〆帳ならびに先触帳を御下げ相願い、立会い取訓べ、熟談掛合い候よう、訴訟方(問屋)へ仰せつけられ下しおかれたく願い上げ奉り候。
 この問題について、問屋役人との交渉の模様を、元治元年六月九日の脚折村名主佐平太の日記によって記す。
   宿役人へ懸合(かけあ)い候ところ、人足を取調べ申さず候ては、一人何ほどの掛合(かけあ)いばかり致し候ても行届き(落着する)申さざる旨にて、何分取敢(取りあう)申さざるにつき、人数調べ候ところ、六十九人の違いこれあり、先ずそれは何れにもせよ、何程にて済まし候や尋ね候ところ、一人(銀)三匁に、三月分は一匁五分の由申し聞かせ候に付、種々相頼み候ところ、承引申さず候に付、余義なく、その段金田村とも談しの上、書面を認(したた)め出し候ところ(以下略)。
 それが、同年七月八日になって、漸く双方が妥協して、示談が成立した。
   示談を懸合い仕り候ところ、一人三匁で如何の旨申すに付、取敢ず(取合わず)候えども、何分先方も引き候体もこれなきに付かれこれ懸合いに及び候ところ、終には三匁は二匁にて行届き申し候。
 ということだから、問屋は、四月以降の触れ当て分を一人銀三匁という主張を引っこめて二匁にしたのである。ここに問題なのは、雇替えに二通りあって、一つは三月中の勤埋(つとめうずめ)分で、他の一つは四月以降の触当分である。四月以降の触当分については、「人足触」に明記してあるが、三月分に就ては不明である。これは三月六日付御印状の下げ札に「当助郷村々三月朔月より勤め埋め申すべき事」とあるから、三月中の勤めは、定助郷の方で代理で勤め、その雇替金を請求されたのであろう。
 この示談の成立によって、脚折村の支払う金額は、最初、問屋の請求した四八両から三八両に減額されたのであった。
 しかし、脚折村の示談は成立しても、金田村や今西村のような他村はなかなか解決しない。幕府の方でも、二度にわたる長州征伐や、江戸御府内での騒擾などの政治的不安のため、この事件の解決は「御日延」・「御流れ」がつづいたのであろう。幕府崩壊の寸前、慶応三年一一月になって漸く「吟味下げ」となった。
    乍(ながら)恐以書付願上
   中山道桶川宿一件のものども申上げ奉り候。先般、諸御通行差湊(あつま)るに付、武州高麗郡脚折村外村々へ当分助郷仰せつけられ候ところ、宿方より人馬勤方に相成らず、その段去る亥年(文久三年)中、井上信濃守様御勤役の節、同宿役人共より御訴え申し上げ候ところ、右村々役人共、御差紙を以て召出され御吟味中、得(とく)と掛合いに及び候ところ、右は宿方より触当の人馬、村々より差出し候途中、川支(つか)え又は俄(にわ)かに病人馬等ができ、自然、宿へ着くのが相後れ候義にて、不勤を致し候義にこれなき段、それぞれ相分り候に付、人馬勤めの不足分は、いずれも遠村故、正人馬の勤め難渋に付、雇替(やといがえ)代を以て、示談行届き、一同申分御座なく、此迄にて御下げなし下しおかれたく願い上げ奉り候。以上
          大竹左馬太郎御代官所
           中山道桶川宿
            定助郷惣代兼
   慶応三卯年十一月
            同宿役人惣代
              組頭 七郎右衛門
         新見相模守
         金田貞之助 知行所
         坪田光太郎
            武州高麗郡脚折村
             役人惣代
          右 相模守知行所
              組頭 次郎右衛門
                     外
 吟味お取下げの歎願書を提出してから約一年かかって、事件は明治新政府に引き継がれ、会計官民政司に済口証文が差上げられた。
   差上申済口御証文之事
  中山道桶川宿役人共より、武州脚折村、外村々役人共へ相掛り、人馬不勤出入申立、去る亥年(文久三年)中、出訴し奉り候ところ、村々役人ども御差紙を以て召出され、相手方よりもそれぞれ始末を申し立て、御吟味中、掛合いの上、熟談内済仕り候趣意を左に申し上げ奉り候。
  一右出入、訴訟方が申し立て候は、諸御通行差湊(あつ)まり、相手村々へ当分助郷仰せつけられ候ところ、勤め方相成らず難渋至極の旨訴え上げ、かつ脚折村外村々にては、それぞれ始末書を差上げ、御吟味中に掛合いに及び候ところ、宿方よりの触当人馬を村々より差出し候途中、川支(つか)え又は俄(にわ)かに病人馬等でき、自然、宿着が相後れ候義にて、全く不勤いたし候にはこれなき段相分り候につき、人馬不足の分は、何れも遠村ゆえ、正人馬勤めは難渋につき、雇替金(やといがえきん)を以て、それぞれ勤埋め、一同申分これなく、熟談内済仕り、偏(ひと)えに御威光と有難き仕合(しあわ)せに存じ奉り候。然る上は、右の件につき、重ねて御願い筋は毛頭御座なく候。これによって後証のため、連印の済口証文を差上げ申すところ件の如し。
          山田一太夫支配所
           中山道桶川宿役人惣代
       訴訟方     年寄 重右衛門
          岡本越之助元知行
           武州入間郡今宿村役人惣代兼
          多田賢之丞元知行
            同州同郡金田村
       相手    百姓代 松五郎
  (以下村名)塚越・脚折・藤金・太田ヶ谷・大橋他四ヵ村・上下押垂・早俣・北園部・古氷・今泉・戸口・片柳新田・吉田・大塚野新田・大谷木・阿須訪・滝之入・正代・葛袋・岩殿・下青鳥・上浅羽・下浅羽(三〇か村)