第一節 江戸時代の支配者

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 当町内の一一か村、六新田の支配形態については、大名や代官・旗本が一か村を一円に支配することは、当町内ではまれであった。多くは、一つの村が分郷されて、二人あるいは三人の領主の支配を受けた。二人の領合は両給、三人は三給といい、総称して相給といった。
 これは、徳川家の家臣団の知行割の基本方針にもとずくものであった。万石以下の下級家臣は、江戸付近、それもせいぜい江戸から一夜泊りの範囲に配置された。江戸から一夜泊りといえば、だいたい一〇里以内ということになる。とすれば、江戸を抱える武蔵をはじめ、伊豆・相模・上総・下総ということになるが、特に武蔵に多かった。このことは、幕府の台所を支える蔵入地(直轄領)についても同様であった。
 武蔵国の総石高九八万石余のうち、幕領(代官支配地)は四八万石余で全体の四九パーセント、旗本領は三〇万石近くで三二パーセント、大名領が一七パーセント、寺社領が二パーセントという内訳である。また、旗本自身の分付状態をみても、五、二〇〇人の旗本のうち、地方渡しを受けた知行取が二、二六四人(四四パーセント)いたが、これらの旗本は関東地方に八〇パーセントと圧倒的に多かった。
 このことは、将軍の旗本、すなわち親衛隊として、緊急有事の際に、江戸へ馳せ参ずるための許容される距離であった。
 ところが、武蔵国に旗本知行地が、このように集中することは、必然的に分郷形態をとることになる。これが当町内に相給支配関係の多いことの原因である。しかし、この分郷・相給支配は、幕府の方針でもあった。これが幕府にとって有利な点は、
 (1)家臣の知行を公平に配分し、それによって家臣の権力を分散させること。
 (2)農民の統制を強化して、それぞれの支配者に属する田畑・百姓を明確にすること。
 (3)納税の単位を明確にして、村役人の不正を防止すること(※註1)。
 しかしその結果は、旗本は知行地の年貢を取るだけで、警察権や裁判権は幕府の権力内に吸いこまれて、いわば官僚予備軍となってしまったのである。
  〔註〕
  (1) 北島正元『江戸幕府の権力構造』

 表4―52は武蔵国における大名・旗本・寺社の単独支配や、それらの入組支配を示したものである。
表4-52 近世初期における武州の知行形態
代官支配旗本支配大名支配寺社領
郡名1231234581123
豊島382405117339110
荏原38389966415
葛飾166166415
多摩133113439814866426
都筑321810113022314
橘樹51512253113211
久良岐272744
埼玉1241243154214313413411
足立13931421131322130262633
新座3351611
入間311324217160515111
比企361372672353131
横見1919
男衾77812112
大里114262626
幡羅1421676321811
高麗4814931151515
榛沢155202273513811
秩父7272
那賀718
児玉13132752438
賀美865120
合計97814299440497271952554303303262331
 
代官,旗本入組大名,旗本入組
郡名234567891012141923459
豊島631111114
荏原81110
葛飾
多摩231162321250112
都筑522111113
橘樹8421116
久良岐
埼玉3222110211116
足立92415224
新座321118
入間63411153216
比企1231722
横見11
男衾11114
大里22325
幡羅5612115
高麗1231113
榛沢123118
秩父
那賀112
児玉3216
賀美11
合計824333118727221119914923129
(北島正元『江戸幕府の権力構造』p.384より)

 表―54~64は当町内における旧各村々の支配者の一覧表である。

表4-53 町屋村


表4-54 上新田村


表4-55 中新田村


表4-56 下新田村


表4-57 高倉村


表4-58 脚折村


表4-59 三ツ木村
※『風土記』に「この地正保の頃は松平伊豆守信綱領分なり、その後遷替ありて清水殿の領知たりしが、今は御料所となり、川崎平右衛門支配せり、云々」とある。


表4-60 太田ケ谷村


表4-61 藤金村


表4-62 上広谷村


表4-63 五味ケ谷村


表4-64 戸宮村

 当町内の各村々を支配したのは次の通りである。