堀田加賀守正盛 寛永一二年より一五年迄の川越城主。三万五千石。信州松本に七万石で移封した。
松平伊豆守信綱・同甲斐守輝綱・同伊豆守信輝
寛永一六年、老中伊豆守信綱が、武州忍城三万石より、六万石の川越城主となる。のち一万五千石の加増を受けて、甲斐守輝綱・伊豆守信輝と三代五六年間在城して、元禄七年、下総古河に移る。
松平美濃守吉保(初めは柳沢出羽守保明)
老中、七万二、〇三〇石。元禄七年より宝永元年まで川越城主。一一年間在城して宝永元年、一五万一、二〇〇石で甲府に移る。
秋元但馬守喬朝(たかとも) 老中、五万石、のち六万石。宝永元年より川越城主。伊賀守喬房(たかふさ)・但馬守喬求(たかもと)・老中摂津守涼朝(すけとも)とつづく。六四年間支配ののち、明和四年、出羽山形に移封する。
松平大和守朝矩 一七万石、明和四年に厩橋(前橋)より移る。直恒(なおつね)・直温(なおのぶ)・斉恒(なりつね)・典則(つねのり)・直候(なおよし)・直克(なおかつ)と、七代九九年間続いて、慶応三年に前橋に帰城した。歴代、大和守である。
松井周防(すおう)守康英(やすひで) 老中、慶応三年、奥州棚倉藩から八万四四二石で川越城に移る。養子康載(やすとも)は明治四年の版籍奉還に伴い、川越藩知事に任命された。
土井大炊守利厚 下総(茨城県)古河城主、八万石。文政五年(一八二二)は、一〇代藩主利厚が老中となって、七万石から一万石を加贈された年である。三ツ木村が土井領となったのは、それまでは御料であったのが、加増の一部として利厚に与えられたのであろう。一一代利位(つら)は、家老の鷹見泉石を助手として研究した「雪華図説」で知られる大名である。そのあと、利享(とりなり)・利則(としのり)・利輿(としとも)とつづき、廃藩置県となった。それとともに、三ツ木村は古河藩→古河県→入間県と変っていった。