旗本

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次に、当町内を知行した旗本について述べると、
丸毛家 元禄一一年から明治まで太田ケ村一五八石余を知行したが、比企・入間・高麗三郡のうち九〇〇石の知行地をもつ旗本であった。
上田家 天保六年から明治まで、太田ケ谷村二〇八石余を知行。新羅三郎の末葉で、信州上田の出身、五、〇〇〇石の旗本。最後の当主は上田鐐太郎である。
永見家 元禄七年から明治まで、二五七石余の藤金村を単独知行した。高麗・比企両郡のうち四〇〇を知行する旗本。
坪内家 享保六年から明治まで、脚折村三四〇石余を知行。武蔵国都筑・多摩・高麗・比企の四郡、および上総国長柄(ながえ)郡のうち一、一〇〇石の知行地をもつ。歴代、町奉行・御書院番・御小姓番士などの要職を勤めた。最後の当主は光太郎。
金田家 天保一四年から明治迄、脚折で九〇石余を知行した金田家は三、〇〇〇石の旗本である。采地(さいち)は、脚折村を始め比企・入間・高麗の三郡で二一か村であった。すなわち、
  比企郡 大塚村・高野倉村・田中村・古池村・桃木村・田黒村・和泉村・大谷村
  入間郡 和田村・上野村・同村下分
  高麗郡 津久根村・関間新田・上岩沢村・下岩沢村・双柳(なみやなぎ)村・笠縫村・阿須村・町屋村・脚折村・川寺村
  最後の当主は貞之助。文久二年には御使番となり、慶応二年には銃隊頭改役になった。幕府の第一線に立つ大身の旗本であった。この三、〇〇〇石の旗本も幕末には借財がかさんで、身動きもできなくなり、知行地二一か村の村役人と示談の結果、「御勝手向御改革御仕法」という財政収支の計画書を作り、向う六ヵ年間は節約の生活を余儀なくされた。
新見(しんみ)家 文久元年に脚折村四八石余を知行した新見正興(おき)は、初め豊前守であったが、のちに伊勢守になった。家禄二、〇〇〇石である。安政六年七月に外国奉行となり、同年八月には神奈川奉行の兼帯を命ぜられた。正興が特に有名なのは、同年九月、日米通商条約批准交換のために、米国派遣正使に任ぜられて、万延元年正月にわが国最初の遣外使節の重責を完うしたからである。彼はその功によって、三〇〇石加増された。脚折村の四八石はその加増の一部だと思われる。文久元年「村差出明細帳」の末尾に「右は新見伊勢守様御加増渡しの節、取調べ差上候控へ」と但し書きをしてある。正興は他に下奥富村で五八四石余の知行地をもつ。
横田家 寛永一六年(一六三九)から慶応元年(一六四八)まで、上広谷の地頭は二五石横田次郎兵衛、二五石同甚右衛門の両家が並記されている。次郎兵衛は名は述松(のぶとし)。四、五〇〇石の大身で、広谷村の他に毛塚・宮鼻・香仏寺・田木・岩殿・石坂・島田の、いわゆる「宮脇八ヵ村」を知行していた。死後、片柳村の休台寺に葬ったが、のち代々横田家の墓地となった。
 寛政五、六年頃には、横田茂松は九、五〇〇石で旗本の筆頭であった。甚右衛門胤松(たねとし)は述松(のぶとし)の弟である。父尹松(ただとし)の遺領、比企、幡羅(はたら)のうち一、〇〇〇石を分ち与えられた。