代官

468 ~ 471
脚折村の代官は、天正一八年(一五九〇)に伊奈備前守忠次が支配を始めてから、文久元年(一八六一)御料が旗本新見伊勢守の知行地になるまでの二七一年間に二二代を数えている。任期は二代目の伊奈忠治の二一年を最高として三代目石川伝兵衛が一八年としこれに次ぎ、最も短かいのは幕末の江川太郎左衛門の三か月である。平均すると四年二か月である。
 新たに代官を拝命するときは、支配高は五万石の御料である。順次に支配高は増加するが、そのときは「場所替」と称して、六万石ないし七、八万石の御料へ移任することが多い。「場所替」は、代官の治績の優劣によって区別をつけられる。また、在任の期間も三、四年のものもあれば、一〇年内外に及ぶものもある。「皆、上司の監察によるところなり」(安藤博『徳川幕府県治要略』)。
 代官は、幕府農政の最前線にあって、直接に農民と接触する機会が多いから、支配の良し悪しは農民の生活に深刻な影響を与え、生殺与奪の権力を握っていた。そのため、代官あるいは下役人の苛政や違法行為に苦しんだ百姓たちが立ち上って、一揆を起した件数は、五三件にも及んでいる。
表4-65 御料を中心とする脚折村支配者
職名人名就任離任備考
代官伊奈備前守 忠次天正18年徳川氏関東総領の時村高398石
大名松平(川越藩)家寛永16年元禄7年慶安元年検地
代官伊奈半十郎(忠治)元禄8年享保元年
石川伝兵衛享保2年享保20年頃
同人支配中,村高480石余のところ,享保6年正月,分郷の上,高240石余を旗本坪内能登守へ知行渡し分与す。同年より慶応3年迄引続き,坪内家代々これを知行す。
代官大谷杢之助元文元年寛保3年
伊奈半左衛門忠勝延宝元年
岡本善右衛門延宝2年
伊奈半左衛門忠達延宝3年
大貫孫兵衛延宝4年立会い支配
上山新左衛門
岡本善右衛門寛延元年宝暦3年
田中平蔵宝暦8年
(不詳)宝暦9年宝暦13年
松下平左衛門明和元年明和3年
三卿田安(中納言)家明和4年天保3年
代官伊奈半左衛門天保3年4月
山本大膳天保12年
関保右衛門天保13年
大熊善太郎天保13年12月嘉永2年10月
但し,同人支配中,天保14年11月,分郷に相成り,村高139石余のところ高90石余を旧旗本金田真之助へ分与相成り,以後,明治3年迄,金田家代々これを知行す。残高48石余が代官支配に残る。
江川太郎左衛門嘉永2年11月安政3年正月
林部善太左衛門安政3年2月安政4年8月
江川太郎左衛門安政4年9月安政4年11月
川上金吾助安政4年12月安政6年3月
江川太郎左衛門安政6年4月文久元年10月
旗本新見伊勢守文久元年11月慶応3年48石余知行
品川県明治元年明治2年7月
韮山県明治2年8月明治4年12月
入間県明治5年正月明治6年5月
熊谷県明治6年6月

表4-66 御料を中心とする脚折新田・下新田村新田支配者
職名人名就任離任備考
代官上坂安左衛門天正18年寛保3年脚折村外九か村入会秣場
新田世話役川崎平右衛門定孝元文4年
代官同人寛保3年寛延2年(1749)美濃代官に転任
(下役)矢島藤助寛保3年寛延2年三角原陣屋で北武蔵野新田を支配する
代官伊奈半左衛門忠宥(おき)宝暦3年寛政3年
管半十郎寛政4年寛政5年他4人立会い
伊奈友之助忠富寛政5年文化5年頃
小野田三郎右衛門文政4年
川崎平右衛門孝保文政5年文政6年四代目の平右衛門である
伊奈半左衛門文政7年天保12年6月
山本大膳天保12年7月天保13年8月天保12年検地高入,同13年同断
関保右衛門天保13年9月天保13年11月
大熊善太郎天保13年12月嘉永2年11月
江川太郎左衛門嘉永2年12月安政3年正月
林部善太左衛門安政3年2月安政3年8月
江川太郎左衛門安政3年9月安政3年12月
川上金吾助安政5年正月安政6年3月
江川太郎左衛門安政6年4月文久3年正月
佐々井半十郎文久3年2月文久3年10月
松村忠四郎文久3年11月文久4年9月
今川要作文久4年10月慶応元年閏5月
松村忠四郎慶応元年6月慶応3年
品川県明治元年明治2年7月
韮山県明治2年8月明治4年12月
入間県明治5年正月明治6年5月
熊谷県明治6年6日
脚折村明治8年4月8日脚折村へ合併