第一節 当村の明治維新

475 ~ 478
 慶応四年九月二五日(実際は八日)当村にも明治維新がやって来た。脚折村名主田中佐平太は、慶応四年九月の日記に「二十五日夜、百姓中へ支配替りの旨申し聞かせ候。尤(もつと)も、年号改元の義も申し聞かせ候」と書いてある。御一新の波も関東西部の農村へ波及するには一七日もかかったことになる。
 今年は何だか始めから落ちつかない年であった。平和な村にも次々と事件が発生した。一月一七日には隣村の高倉村で兵賦(へいぶ)の割合せをした。兵賦とは、幕末になって、内外から迫ってくる危機を乗り越えるために、幕府はいろいろの軍事改革を進めてきたが、武士だけの常備軍では不足を来し、ついに「農兵取立」という非常手段に訴えざるを得なくなってきた。それで、文久二年(一八六二)に兵賦令を発令して、農民をも賦役として兵卒に編入することにしたのである。幕府は草創以来、兵農分離という身分的階級的差別政策を厳守し、農民の武器所有と転職・移住を禁じてきたが、ここに到って、百姓蔑視の差別政策を放棄するの止むを得なくなったのである。五〇〇石以上の旗本には、知行地から強健なものを石高に応じて徴発し、蔵米取(くらまいとり)にも兵賦金を徴収した。このようにして、一七―四五歳の壮健な者が五年の年季で兵に募られたのである。この新歩兵は、二年後までには、ほぼ八組三、五〇〇人を数えたという。しかし、この兵賦の負担は、疲弊した農村をいっそう苦しめることになり、関東一帯の「世直し」一揆の原因となったほどであった。
 各藩でもこの農兵制を採用したが、川越藩を始め、あっちこっちで一揆が起こった。川越藩では、慶応二年八月、領民から壮丁を徴発して農兵隊を設置しようとしたが、この農兵組織は一般農民の負担によって、上層農民と藩権力を擁護するものと察知されたから、そのための経費と課役を一般農民に転稼するものだと不満がくすぶっていた。なかでも入間郡大井村周辺一〇か村余の農民は、四名の代表を選び、農兵反対の願書を藩庁に提出し、出訴に及んだ。藩がこれを拒否したので、大野原(大井村内)に集合の上、強訴(ごうそ)の連判を行った。これに対し藩は四名の代表者を捕縛したが、農民は再三にわたって大野原に集合し「農兵一件難渋歎願」の強訴をつづけ、藩の説得に応じなかった。このように、川越藩農兵の設置は、領内農民の激しい抵抗にあい、実現困難のうちに、藩主松平直克(なおかつ)は上野国前橋に去ることになった(大舘右喜「川越藩」『物語藩史』第三巻 『川越市史』第三巻)。
 このような経過を経て、陸海軍の充実を迫られた幕府は、兵賦の代金納を公認することにした。農民を兵卒に徴発する代りに、貨幣を納めさせようというのである。その資金で給料目あての兵を雇うより他に仕方がなかったのである。こうなると、村高に応じて兵賦を出していた村々の兵士は、新しい制度に代ったために帰村してしまった。代った歩兵はみんな不良の傭兵だけで、「給金目あての市僧遊手の徒(無職者)」ばかりとなった。その兵士たちにできたことは、「この頃、歩兵市中において暴行に及ぶことしばしばなる故、陸軍方出張して召捕られしにより追々鎮まる」(『武江年表』)という状態であった。のちの鳥羽、伏見の戦いでは、一路大坂に向けて敗走をつづけ、徳川三〇〇年の天下をわずか三日で失わせたのも彼らであった。
 二月朔日のことであった。「朝いつごろに候や、夜明けて見候ところ、〝蘇民将来の子孫〟、他に梵字の御札、縁(えん)に降りこれあり候」という事件があった。お札が空から降ってくるという現象は、この頃武蔵国に広まっていた。その始まりは、慶応三年八月の末頃、名古屋で起こった。城下のある仏具工の家に、伊勢大神宮の御祓(おはらい)が降ってきた。早速その家では、役所に届け出て、家に祀ったという。九月にはいると、このお札降りは一〇日頃には城下の町々で降った。お札を祀らない町はほとんどないほどであったという。やがて一〇月から一二月にかけて全国的に広がり、西は京・大坂をはじめ広島・四国まで、東は東海道筋を経て、静岡・横浜、ついには江戸を含む武蔵国にまで及んだ。
 空から伊勢神宮のお礼が降ってきたことは、何か目でたいことのある前兆だとして、人々は緋縮緬(ひぢりめん)の着物や青や紫の衣裳で身をつつみ、女装の男、男装の女たちが入り交り、太鼓や笛・三味線などをうち鳴らし「ヨイジャナイカ、エイジャナイカ。クサイモノニハ紙ヲハレ、ヤブラレタラマタハレ。ヨイジャナイカ、エイジャナイカ。」また、「日本国のよなおり(世直り)はええじゃないか、ほうねんおどりはお目でたい。おかげまいりすりゃええじゃないか、はあ、ええじゃないか」と踊りまくった。
 彼らは、日頃不満をもった地主や商人の家に踊りこみ、「こいつくれてもええじゃないか、そいつ上げてもええじゃないか、持って去(い)んでもええじゃないか、着もの脱いでもええじゃないか、あたまはってもええじゃないか」と、お祭り騒ぎのなかで、強奪と破壊をほしいままにした。
 このお札は江戸でも降るようになった。「慶応三年冬の頃、夜中ひそかに屋上または垣・塀の内、家の前等へ、神仏の守りを散らしおくものあり。翌日、その家のあるじ、奴婢(ぬひ)等これを拾い得て、不思儀の事とて尊信するものもあり。人心を惑わす所為(しわざ)なれば、官府より御沙汰あり。やがてこの事止みたり。」(『武江年表』2)また、慶応四年(九月一六日より明治元年)には「三月頃より人心穏やかならず、諸方へ立退(の)くものあり。また、闘諍(そう)・辻斬等多く、夜中は別けて往来少なし。また強盗多し。」と江戸の不安な状態を記したあとで、「春の頃より、東海道駿河・遠江の辺(ほとり)より始まり、虚空(こくう)(大空)より大神宮の御祓(おはらい)・大麻(たいま)ふり、また宇内(うだい)(天下)の神仏の御影(みえい)(尊像)、守護の札ふりしとて、村民等これを尊み祭り、酒飯を調(ととの)えて親戚・知己(ちき)、または道行く人をさえ饗(きよう)(ごちそうする)し、次第に長じて、男女老幼にいたるまで一様の新衣を着し、花万度(まんど)(※註1)を持出し、伎踊(おどり)を催して賑わいける。この風俗、江府(江戸)の市中に及ぼし、古き守札などひそかに降らして惑わせし族(やから)もありけるが、程なく止みたり。信州の辺にも流伝してこの事あり。彼の地にもことに美服をととのえ、伎踊(おどり)・練物(ねりもの)(※註2)を催して賑わいけるが、これも程なく止みたりとなむ。」(同書)
 この慶応三年という年には、内憂外患相次いで、幕府は倒壊の寸前にあった。前年には米価が暴騰して、名栗村の細民たちの米価引下げ騒動をきっかけにして、「世直し」一揆が関東一帯を燎原の火のように荒れ狂った。米価を始めとする諸物価はますます高騰して、庶民の生活は困窮のどん底に落ちていた。そのため、全国的にみても、この年の一揆や打ちこわしは、江戸時代を通じてピークに達していた。幕府の第二次長州征伐も幕軍の敗退で終結し、幕府の権威が地に落ち、討幕派の大軍が京坂地方に集結しつつある。こういう状勢のなかで民衆は、何かよい時世になるだろうと大きな期待をもつようになった。しかし、彼ら大衆は事の真相を知るよしもなく、組織立った行動をしているわけでもない。政治的行動をとる手段は全くない。そこで、わけもなく大声でわめき叫び、踊り狂い、役人の制止を物ともせず、「世直し」を夢みたのであった。
 このお札降りの特徴は、伊勢の一部を除いて、伊勢神宮への参宮を目的としないことである。また、極めて多様な諸神・諸仏と結びついて、民衆の間の日常的な信仰が総動員されており、それに伴う熱狂的な踊りを主要な行動とした。民衆が封建的なもろもろの規制から全面的に解放されるという予感と幻想にとらえられたとき、熱狂的な踊りとしての「ええじゃないか」が起こったのであろう。
 慶応三年二月朔日に脚折村田中家の縁(えん)に降ったという「蘇民将来の子孫(※註3)」や、梵字(ぼんじ)(※註4)のお札は、この「ええじゃないか」の余波が、武蔵国の山寄りの農村にまで押しよせてきたものであろう。ただし、「ええじゃないか」の踊りを伴ったことは書いてないし、またそれを喜んで、知人を呼んでご馳走したという記事もない。
 このお札降りと踊りは、自然発生的なものではなく、討幕派の誰かが煽動して利用したとか、寺社の関係者、下男・小前百姓、あるいは浪人などの策謀説などがあるが、何れも確証はない。
 脚折村の場合は、日本全国の民衆の平穏無事を願い「病難除(よけ)・家内安全・五穀成就」のお札が降ったこともあるから、その系統に属する者の仕業(しわざ)であろう。
 
  〔註〕
  (1) 四角な箱に、御祭礼などと大書し、その下に町名や氏子中・子供中などと書き、これに灯火をともし、花を飾って祭礼に出すもの。まんどう(万灯)ともいう。
  (2) 祭礼の時などに、ねりゆく踊屋台、仮装行列、または山車(だし)などのこと。
  (3) 本来は、祇園牛頭(ぎおんごず)天王に宿を貸した好意により、天王から、その子孫に至るまで疫病の難を免れさせようと約束された南海の貧者の名前である。転じて、疫病除けの護符をもいう。柳の木の枝を短く六角形に削り、その表面に「大福長者蘇民将来子孫人也」などと墨書されている。全国各地の社寺で、正月の一四、一五の両日、参詣者に分与する。これを身につけておれば、厄除けになると信じられておるが、田畑に挿したり、門の戸口に掲げたりすれば、虫除けの効能があるとも伝えられている。
    当地方の人々が伊勢参りに行くときには、途中、名古屋の西方にある津島神社に参拝するが、ここにも牛頭天王が祀られている。この神社は疫病除けの呪符を発行するので、これを戴いて、家々の門にはって災厄を免れる。それで、当地方にもこの牛頭信仰は、広く行きわたっていたわけである。
  (4) 梵字は古代インドの文字で、仏教用語に使われる。この場合、梵字であらわされた仏・菩薩のこと。「ええじゃないか」の乱舞に降ったお札には、南無阿弥陀仏・地蔵尊・不動明王・大黒天・鬼子母神・弁財天・観世音など総動員されているから、その内の一つであろう。
  〔参考文献〕
  安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』
  藤谷俊雄『おかげまいりとええじゃないか』
  伊藤忠志『民衆と新政府』
  田中彰『明治維新』
  日本思想大系『民衆運動の思想』