新政府軍が続々中山道を江戸へと進んでゆく。四月一五日と決定した江戸城総攻撃のためである。中山道軍が上尾宿を通過したあとを追うように、三月二九日には、総督高倉永祐(ながさち)に率いられた北陸道軍が、長途の行軍を終えて通行することになっている。兵器や糧秣の輸送に宿場は多忙を極めている。定助郷だけではとうてい人馬が足りない。その不足を補うためには増助郷の援助を仰ぐほかはない。そこで脚折村・高倉村・太田ケ谷村に増助郷の触れ当てが来たのである。遠い上尾宿までは、一日勤めるのに三日もかかる行程だ。村の人馬を集めて正人馬を勤めるか、それとも雇い上げにするか。三か村の村役人はお互いに相談して、早急に決めなければならない。増助郷については村は永年苦しめられてきた。助郷の差村にされたら、村は滅亡退転の一途をたどるよりほかないといわれるほどの苦役である。明和元年(一七六四)には助郷大一揆が勃発して、天草の乱以後の大騒動といわれたほどである。また、文久三年(一八六三)には、将軍家茂(もち)の上洛・帰府を含めて、中山道往来の貨客が輻湊(ふくそう)し、増助郷の勤めが繁多のため、御用人馬勤め割り等の件で桶川宿と紛擾を起こした。そのため、同宿から訴訟を提起されたが、双方の主張が対立して容易に落着せず、延々四年四か月たってもまだ係争中であり、明治元年一二月に漸く示談が成立したのであった。
こうした過去の苦い経験のあとで、またしても上尾宿から増助郷の触れ当てが来たのであった。助郷お勤めの状況を、佐平太の日記の中から摘記すると次の通りである。
三月十九日 上尾より人足触れにつき、平八を高倉へ遣わす。夕、六人にて拾弐両出金。外に三両一朱、先日割の分、〆十五両壱朱持参。
廿日 人足十四人連れ、左平太、才(宰)領に行く。高倉同道。夕刻上尾宿山城屋へ着す。平六、本陣へ行き、泊る。
廿一日 上尾にて、脚折・高倉・太田ケ谷三ヵ村人足、半日も勤め、後は買上げ。此夜帰宅。
廿二日 村役人一同参り候間、次第申し聞かせ候。
廿七日 上尾より高倉殿御通行の廻状来る。出口(相名主友左衛門)へ持参。
廿九日 夕刻、上尾宿よりの人足触れ。但し高倉殿御通行。
晦日(みそか) 次郎右衛門、高倉平六殿へ人足触れの話に遣わす。然る処、太田ケ谷へも申し遣わし候処、何れ其村方へまかり出で候よし、申し候旨申し候。
此日、太田ケ谷清兵衛殿、役人代としてまかり越し候間、同道いたし高倉へ行く。品々話の上、四人触れの処、弐人行き、外は買上げにて勤め候筈。才領は脚折・太田ケ谷で話の上、行き候筈。尤も平六殿行く筈、一夜泊りにて。此夜、村方人選いたし九人定め、外に十人定めおく。此夜、清兵衛殿より手紙来る。右村にては次右衛門殿行くよし。左平太にもまかり出で候よう申し来り候間、下役中話の上、平八行く筈。
四月朔日 昼より人足九人遣わす。才領平八行く。
此日夜、上尾に行く。人足・才領ども帰村後は、平六殿へ頼みおき申し候。
四日 此日八つ時(二時)頃、友左衛門殿へ上尾の次第話し候。
五日 夜、上尾宿より人足触れ来り、出口(友左衛門)へ遣わす。
六月 早朝友左衛門殿来り、人足触れの次第申し談じ候。買上げ仕りたき義にて、高倉へ行く。但し、友左衛門殿程なく立戻り、太田ケ谷より来り候わば、人足なく、買上げ勤めの筈にいたし候旨、申し候筈の由。間もなく平六殿、支度(したく)にてまかり候につき、文助殿へ行く。高倉同道なり。
七日 雨ふり。七つ時(四時)過ぎ、平六殿、文助殿帰村。人足の義、買上げにいたし候旨申し来り候。村高(※)の義は、八十石切捨て、四百石と申すことにいたしおき候旨、平六殿申し候。
※ 脚折村の村高は四七九石である。
夕刻、友左衛門殿へ礼に行く。
廿八日 和田橋木屋にて参会これあり、上尾にての人足賄料の割合せ。
然る処へ上尾より人足触れ当て来る。村々一同まかり出で、買上げいたす筈。
廿九日 村役人ども相談の上、上尾へ買上げに左平太行く筈。昼後出立、上尾へ夕刻着。
閏(うるう)四月 (旧暦では季節の狂いをなくするために、一九年間に七回の閏月をおいた。そのときは、一年が十三か月となる。)
朔日 人足の義は惣触れいたし候由。一日勤め。尤も二月よりは六つに割り、是までの順もこれあり候間、勤口より初め、順に勤め候筈の由。此度の買上は追(マヽ)て一度にてよろしき旨、是迄正路(せいろ)(正直に)に勤め候故。尤も、十五日頃人足触れ当てこれなく候はば、其ままにてもよろしき旨、定助郷惣代小室村三右衛門とか申す人、平八殿へ申し聞かせ候。
此日四つ頃(一〇時)上尾宿出立、平方休み、川越休み、夕刻帰村。
上尾一条、文助殿へ金拾壱両預け、勤め帳預け。此度の入用は三朱と五百廿四文、自分立替え申し候。
二日 高倉清兵衛殿来り、助郷人足ちん壱人六匁と極(き)め候よし、申し来り候間、出口へ申し遣わす。
三日 上尾宿助郷入用割合せに、文助殿(友左衛門の子)宅へ行く。
五日 前日同断、勘定仕り候。
十九日 夜、東海道平塚宿役人、坂戸旅宿より助郷触れ回状到来。三ツ木へ継ぐ。
桶川宿より、御総督府江戸へ帰陣の由にて、人足触れ来る。
廿日 朝、友左衛門殿宅へ村役人一同寄合い、東海道一条申し談じ、高倉へも申し遣わし、高萩へ行く。但し昼後より自分・友左衛門行き、夜に入り帰る。尤も、上尾宿勤め候間、篤(とく)と小前へも申し聞かせ、明朝挨拶の旨申し候。
廿一日 朝、太田ケ谷重右衛門殿来る。平塚宿は断(こと)わり候事に申し談じ候由。村方も村役人一同話の上、右の通り断わり候事に相談行届き申し候。
此日朝、上尾宿より人足触れ来る。
友左衛門殿、木屋へ行く。高倉にても断わり候由。自分は高萩へ平塚宿旅宿へ断わりに行く。尤も平六殿同道。但し脚折村新田・藤金新田は、壱分壱朱遣わし、済書付取り申し候。夜に入り帰る。友左衛門殿へも次第柄申し聞かせ候。
廿二日 平六、上尾へ買上げに行く。
廿三日 雨ふり。太田ケ谷重右衛門来る。上尾買上げ壱〆壱朱(※)ずつの由。家(ママ)根代は出さざる由申し候。
※ この年の銭の相場は、両に八貫文だから、壱朱は五百文である。
六月十六日 平八より上尾人足の義、話につき、高倉へ同人行く筈。
以上、三月一九日に中山道上尾宿から人足触れが来てから、閏(うるう)四月二三日までの六三日の間に、八回の助郷の触当てがあったわけである。これは新政府の東征軍が江戸城攻撃を目ざして進軍をつづけているからである。そのため中山道に多量の輸送が始まって、助郷村々の人足だけでは足りなくなり、増助郷を脚折村・高倉村・太田ケ谷村に触れ当てしなければならなくなったのである。
東征軍が上尾宿を通過するまでの経緯を述べると次のようである。
慶応四年一月三日、幕府軍と薩摩・長州の連合軍が、鳥羽・伏見で衝突して戊辰(ぼしん)戦争が始まったが、幕軍はもろくも総崩れとなって大坂へ潰走した。将軍慶喜は江戸へ帰って再起をはかるほかはないとして、海路、江戸へ脱出した。この結果、薩・長両藩は新政府を完全に掌握し、慶喜は朝敵とみなされることになった。慶喜の退坂のあとを追うかのように、一月七日、慶喜討伐令を発し、東征軍を編成した。東征大総督には有栖川熾仁(ありすがわたるひと)親王を補し、軍を東海・東山・北陸の三道に分って進撃することにした。東征軍の陣容は、
東海道先鋒総督橋本実梁(さねやな) 副総督柳原前光(さきみつ)
東山道先鋒総督岩倉惧定(ともさだ) 副総督岩倉具経(ともつね)(二人とも岩倉具視(ともみ)の子)
北陸道先鋒総督高倉永祐(ながさち) 副総督四条隆哥(たかひら)
東征大総督有栖川宮は、参謀西郷隆盛(薩摩)・林玖(く)十郎(宇和島)を従え、節刀と錦旗を賜わり、これら諸道の総督をその指揮下においた。
諸道の征東軍が進発すると、向うところ敵なく、かつての参勤交代の大名行列と大差ない早さで江戸へ進んで行った。東海道先鋒軍は、途中何らの抵抗を受けることもなく、三月一二日には品川に到着した。これに対して、東山道先鋒隊は、本隊が下野足利付近の梁田(やなだ)で徳川軍の抵抗を受け、甲州に向かった板垣退助率いる別動隊が、近藤勇を首領とする新選組二〇〇人ほどと、甲州勝沼で一戦したが、いずれもたいしたこともなく、東海道先鋒軍よりややおくれて、三月一四日、板橋に到着した。ただ、北陸先鋒軍は福井・金沢・富山を経て越後の高田まで進み、そこから信州を経て高崎を通り、江戸に向かうという長途の行軍であったが、途中小ぜりあい一つなく、四月四日、江戸に入った。東征大総督有栖川宮は、二月一五日に京都を出発、早くも三月五日には、徳川家に最も大切ないわれのある駿府城に入った。翌六日、参謀会議を開き、三月一五日に江戸城に進撃することを決定した。
ところが、一三日に参謀西郷吉之助(隆盛)が高輪の薩摩藩邸に到着、同日と翌日に勝海舟と面談し、将軍慶喜の謝罪恭順が認められるとともに、新政府軍もまた江戸城の無血開城を承諾せざるをえない事情があって、江戸城攻撃はひとまず中止となった。関東には徹底抗戦を叫ぶ主戦派が活発な動きをつづけており、関東一帯には一揆・打こわしが荒れ狂うている。この場合、あえて江戸攻撃を強行すると、関東全域が果てのない混乱に陥り、新政府軍も帰路を断たれ、金穀運送の道を失って立ち往生するにちがいないという危惧があったのである。
こうして、四月一一日、江戸城は平和裡に開城され、新政府軍の管理下におかれることになった。
この時、埼玉県下の一揆・打ちこわしは、四月七日、所沢の勝楽寺村に打ちこわし発生。農民五〇〇人蜂起。同月に、埼玉郡台村に打こわし発生、一五〇人徒党、米金を奪取する。また同月、栗橋助郷村々百姓ども放火乱暴する。同月、桶川・幸手組合数か村の困民が徒党乱暴する。閏四月一〇日、榛沢(はんざわ)郡人見・田中村の一揆(人見騒動)があった(『埼玉史料辞典』)。こういうふうに、県下も混乱していた。
この東征軍の進軍経路をみると、中山道上尾宿は、二度にわたって東征軍が通過したことになる。初めは東山道軍であり、次には三月二九日、高倉永祐(ながさち)の率いる北陸道軍である。東山道軍約一、六〇〇の兵は、三月一三日に板橋に到着しているから、一〇日頃には上尾宿を通過したはずである。一〇日前後には当地方へは増助郷の触れ当てがないところをみると、上尾宿では宿泊しないで、そのまま通過したものであろう。三月一九日に上尾宿から人足触れがあったのは、東山道軍の後続部隊の人足徴発のためでもあろうか。
このような大部隊が江戸へ向けて一斉に進軍するのだから、宿場の混雑はひとかたではなかった。東海道軍の記録によると、
「当時、街道の宿駅で人馬を徴用するのは、諸隊で争って行い、混雑している最中であった。兵さえ早く行けばよいというので、傭えるだけ多く傭い、駅馬なり駕籠を集め、兵士の鉄砲その他重い荷物は皆馬に付けた。また、刀のような長いものは馬ないし駕籠につけて、兵士が足を傷めたら駕籠に乗せるつもりで、素裸(すっぱだか)同然に身軽にした。」(『史談速記録』)
「三島の宿に入ると、官軍で充満していた。宮(輪王寺宮)を探すと、三島が混雑して入れないので、宮は山中の一小破寺へ泊せられ」(『自証院記』)たのであった。
このように、上尾宿でも大軍の継ぎ送りに人馬の需要に応じきれなくて、遠隔の当地方までも増助郷を触れ当ててきたのであった。
助郷制度は、新政府にとっては、徳川幕府よりもいっそう重要な機能をもっていた。それは、鳥羽・伏見の戦争から慶喜追討へと急速に戦を拡大した新政府にとっては、街道と輸送業務は、何よりも先ず、兵器や糧秣の運搬を確保する軍事施設であり、軍務にほかならなかったからである。従って新政府は、東征軍の進発に当って、経路にあたる東海・東山・北陸などの諸道と宿場を掌握することに大きな関心をはらい、東征に加わった沿道諸藩に対して、「宿々警衛、人馬継ぎ立て世話向き」を中心とした輸送手段と輸送業務を確保することを命じたのである。それと並行して、助郷割当ての拡大を実行した。そして海内一同にひとしく出役を命ずることになった。
先般、御領を始め、宮・堂上ならびに寺院領地の村々へ御親征限りに助郷を相勤め候よう仰せつけ候えども、近年、宿駅・助郷とも至極(しごく)難渋に及び候段、追々歎願仕り候につき、旧弊を御一新の折柄、且つ、私を以て助郷同ぜざることこれなきよう、向後は海内一同に助郷相勤むべく候よう、仰せつけられ候事
という達(たっし)が発せられたのである。これは、今迄は、宮・堂上(公家(くげ))・寺院の領地は、助郷免除であったが、宿場も助郷村々も疲弊しているし、旧弊をすべて改める御一新のときであるから、また、私事で同一に助郷を勤めないことのないように、全国一様に助郷を勤めるよう仰せつけるというのである。
この達によって、街道沿いの村々はもちろんのこと、遠隔の村々まで江戸時代にひきつづき、助郷という苦役を勤めねばならぬことになったのである。