三月十四日 此夜、勘右衛門、打こわしの事につき注進これあり。
十五日 高萩・坂戸より、打こわしの様子を聞きに来る。
四月四日 番非人、暇貰いたき旨、先日申すにつき、一両日留めおき候ところ、友左衛門(相給名主)様帰村、程合いも相判らず候はば、番人申す通り、暇遣わし申すべきよう致すべきや申し談じ候ところ、然るべく頼む旨申し候。
十五日 四つ半(十一時)頃、惣左衛門より打こわし参り候旨、知らせ来り申し候。すぐさま御合給(友左衛門)へ談じ申し候。高倉へ伴五郎殿を以て申し遣わし候。
夕方、「天狗廻状」高倉へ来り候由、勘助殿より通達これあり、出口(でぐち)(友左衛門)へも申し遣わし候。
此夜、三人夜番いたし申し候。此日は帳面そのほか、近所へ預け申し候。此夜、「天狗廻状」の趣(おもむき)、坂戸へ知らせ申し候。
十六日 暁、高倉より申し来り候には、駒寺へ押寄せ来り候旨、通達これあり候間、御合給へも申し送り候。右につき、平八を高倉の様子見に遣わし候ところ、乱妨(らんぼう)人にはこれなく、強盗忍び入り候よしにつき、その段、坂戸へも申し遣わし候。
此朝、友左衛門殿宅へ村中寄り合い、もし来り候はば、人足を差出し申すべく候間、間合(まあい)を早く逃げ去り候よう致すべき旨、申し聞かせ候。もしまた、防ぎ候義にこれあり候はば、高倉より申し越し次第、右に仕り候筈、申し聞かせ候。
此日、友左衛門殿・自分、高倉義防ぎの話これあり候間、両人にて同様頼む旨、申し参り候ところ、別段頼みに行き申さず候とも、先方より沙汰次第、人足出し申すべき旨申し候間、引取り申し候。
平八来り候間、右の由申し聞かせ候ところ、出口へも話に及び申すべしと申し、帰り申し候。友左衛門殿へ申し候には、明朝何れまかり出づべき旨、申され候よし。
夕方、万次郎厚川へ仔細柄(しさいがら)を内々申し遣わし候。
十八日 出口へ寄場(よせば)廻状につきまかり出で申し候。
十九日 自分・友左衛門、寄場へ行く。百石三俵三両の話(官軍の軍用金)これあり、銘々心得次第にいたし候よう、大惣代より申され候。
次に、関東御取締り御廻村これなき事に相成り候間、悪ものなど多く出来、通り候ようになり、騒ぎ出来(しゆつたい)の間、川越御役所へ願い出で、御取締り行き届き候よう、惣代方より申さる。村々一同得心(とくしん)に相成り申し候。此日参会入用五百文、友左衛門殿にて出す。
廿四日 高倉へ出府の話に行く。然るところ、百石三俵三両差出すに及ばざる旨、触書来る。
閏(うるう)四月三日 此夜、松吉方へ盗賊来り、退散。
四日 此夜、なおまた松助方へ盗賊来り、退散す。
五日 此夜、夜中目印(めじるし)(※1)の事、小前一同に申し聞かせ候。その外(ほか)、取締り向き申し聞かせ候。もっとも、悪もの□候はば、鳴(なり)を立て(※1)、竹貝を隣家にてふき候筈。松明(たいまつ)を拵(こしら)え候よう申し聞かせ候。
※(1) 大井村では、さらし木綿を使うことになっている。
※(2) 騒がしい声や物音を立てる。
※(2) 騒がしい声や物音を立てる。
十五日 長州浪人、金借りにまかり越し申し候。
此夜、平吉盗賊に出会い、打たる。鳴を立て、それぞれ村内集まる。
(閏五月一八日から、二三日迄は、飯能戦争の記事があるが、後述する。)
廿六日 川越御巡り御役人三人来る。小者壱人・道案内、吉野屋丹次(※)・弥五郎・沢木来る。八つ時(二時)頃来る。茶を出し、三ツ木村へ送る。
※ 吉野屋丹次は関八州手先である。弥五郎・沢木は不明だが、同様手先であろう。
五月廿五日 朝、村方より飛脚来る。昨夜、松吉方へ強賊押入り、両人切殺し、その上、火をかけ焼き候よしの書面につき、早々立戻る。昼前帰宅に相成り、その上、松吉方へ行く。
地頭所へ訴え(ママ)出候を、時節柄につき取片付けの談相成り、右仕り候。
もっとも死馬の義は、才道木捨場にこれなく、墓所片脇又は屋敷内なりとも、埋入れ申したく申し候間、番人へ掛合い候ところ、皮代二分、左(ママ)儀代二分、酒代二分差出しくれ候よう申され候ところ、かれこれ六かしきにつき、場主へ懸合い、差含み候よう申し聞かせ候ところ、両御名主様より仰せつけられ候義につき、差含み申すべき旨挨拶これあり候。
此日、灰寄せの義、村中は申すに及ばず、高倉村・下新田村・藤金村、右の村々にて灰を片づけ申し候。もっとも残り申し候。
二十六日 村中にて灰寄せ残りの片づけ。木を伐り、小屋掛け仕り候。四つ(十時)休み、酒。昼食握りめし。八つ(二時)休み、何にもなし。夜食、握りめし、酒出る。
二十七日 組合(五人組)のもの礼に来る。
二十八日友左衛門(出口組名主)殿礼に来る。
六月朔日 昼時、番人を招き相尋ね候ところ、廿八日夜、正福院先にて何者にや、尋ね候間、村方番人の旨申し候ところ、外に仔細(しさい)はこれなき間、番に及び申さざる旨申し候間、悪もの三人の先に立ち、帰宅の由申し候。もっとも才道木辺(あたり)にて貝(ほら貝か)をふきはなし申し候。
三日 大工半次郎、横穴出来(仕上げか)に昼より来る。
七日 平六殿来る。夜党(夜番か)手当の義につき、人足十二人、伜(せがれ)万次郎出す。もっとも昼後より文助・平八も行く。此夜番十人ずつ二組になり廻る。
八日 自分・文助、坂戸大竹(名主)へ行く。川越様御役人中、四つ時(十時)出立にて、囚人五人引立てる。自分どもは九つ時(十二時)頃帰宅。もっとも吉田村藤吉殿より申され候は、周防(すおう)守(川越城主)様御廻りの節、村役人宅へ御立寄りの有無に狗わらず、その村御通行に候はば、まかり出で御機嫌伺い申し上ぐべき旨申さる。隣村へも申し通ずべき旨申され候間、友左衛門へも申し聞かす。翌日藤金へ申し送り候由。
十八日 夜番の義、御合給へも休むべきや、仕るべきや、談じ申し候。手当の義、追って話の上となり、番は休まず、今少々廻り候筈(はず)になる。
七月四日 此日、新田掃部(かもん)(人名)来る。関間新田徳次郎へ悪もの集まり候様子、内々申し越し候。
民政裁判所(※)より御触書の写し、組合村より触れ来る。
※ 裁判所とはいうものの、裁判を掌(つかさど)る裁判所ではない。新政府が設けた民政一般を掌る役所。江戸時代の幕府直轄料の役所は次のように変った。
勘定奉行→民政裁判所→鎮将府会計局→会計官→行政官
七日 松吉方変死人盆供(ぼんく)(※)の話、盆供納め然るべく、左もなく候はば、明年にて然るべく、何れとも友左衛門殿の思召(おぼしめ)しを以て、取計らいなさるべくと申し候。村役人一同立会い居る。
※ お盆のときにする供養(くよう)。盆供養。
十七日 先達(せんだ)って中の取締り入用、かつ弁当代、ろうそく、その外入用は、大立ち(重立ち)候ところにて差出し候筈(はず)。もっとも、さらし入用程にもこれなく、何程か減らし申すべしと申し渡し候。
廿二日 関間新田の変死人を見舞に行く。
廿八日 寄場へ印形持参、盗賊引合(※)御免の受印仕り候。
※ 引合人(ひきあいにん)。すなわち、証人・参考人。
八月十二日 しん浚われ候旨、申し来る。
十三日 此夜、強賊、藤金村宮山(※)へ立入り候由申し候。太田ケ谷人足参り候間、脚折・高倉・太田ケ谷・藤金にて人足出し申し候。取押えず。
※ 字宮裏にある古墳のことか。
廿六日 囚人番の才領に長蔵行く。明日、惣右衛門行く筈。
十一月七日 夕、掃部(かもん)方より、大塚野新田に変死人これあるよし、しらせ来り申し候。
十二月十五日 朝、平八来る。馬上炮壱挺、代金壱両三分にて買う。
廿四日 此日、夜番手当の義、米、反に五合、小麦なら壱升ぐらい遣わし候筈。
慶応という年号が、明治と改称されたこの年には、世の中がめまぐるしく変っていった。慶応四年正月早々、戊辰戦争が起こったが、幕府軍はあっけなく敗退した。江戸へ逃げ帰った将軍に追討ちをかけるように、慶喜討伐令が出た。二月には東征大総督が任命されて三道から江戸へ進軍してゆく。そして、三月一五日には江戸城総攻撃の予定であったが、西郷隆盛と勝海舟の会議の結果、攻撃中止と決定した。四月四日には討幕軍は江戸城に無血入城し、将軍慶喜は水戸へ退去した。しかし、旧幕臣の抗戦意欲は強く、上野寛永寺の境内に集結して、彰義隊と称し、新政府軍に反抗した。それも、五月一五日の上野戦争によって潰滅すると、その残党が近くの飯能(はんのう)天覧山に拠って徹底抗争を叫んだ。関東各地でも旧幕臣や諸藩の脱走者が随所に隊を組んで、いわば一種のゲリラ戦を展開した。しかし、彰義隊の残党と、それに呼応する房総・武蔵の部隊は、五月中にはあらまし平定された。こうして、関東南部は一応戦塵を免れるようになったが、戦場は関東北部に移って、日光・宇都宮方面で激しい戦いがつづいていた。この間、新政府軍が江戸城を受取った後の二、三か月は、人心の動揺は容易に鎮定せず、無政府の状態にあった。(『大隈侯昔日譚』)
旧幕脱走兵が各地でゲリラ活動を展開したのとほぼ同時期に、二月下旬から四月にかけて、関東一帯に一揆の波が高まった。明治元年の一揆総件数のうち、その過半数に当る六五件が二月から四月までの三か月間に起きており、しかも、そのうちの七割余が戊辰戦争の臨戦地帯、すなわち関東に発生している。もっとも、上野が最多であるが、武蔵・下野がこれにつづいている。
その例を挙げてみると、武州葛飾(かつしか)郡幸手(さって)の不動院の近辺では、浪人ていのものが、集団的に富豪や寺院に乱入、放火し、あるいは金銭を強奪し、更に官軍と称して暴行し、それだけでなく「困民の者共徒党致」し、「日々夜々半鐘を打ならし、賊徒引集め、大行(おおぎよう)(大げさ、誇大)の致し方穏やかならず」の様相であり、岩槻では「悪徒共」が立廻って、一揆・打こわしを行った。栗橋宿では「武州一帯の村々では、一揆勃発以来、人心の不穏は依然として続き、種々の鎮撫策も効果がなく、今や日々の人数の通行にもさしつかえる状態」となっていた。(原口清『戊辰戦争』)
川越付近では、上野戦争の直後、川越辺で、脱走兵と新政府軍が交戦したとき、かねてから歩(夫か)役と御用金の賦課とで苦しんでいた川越近辺の百姓らは、脱走兵に味方して、新政府側の川越領主と戦った。また飯能では、能仁寺に立籠(こも)った上野東叡(えい)山からの脱走兵に対し、近隣の農民が参加し、新政府軍と戦って勝利している。このとき、脱走兵や農民が使用した大砲は、秩父辺の花火用の木筒であり、秩父辺の猟師が脱走兵に混って活躍した。(同書)
こういう状勢のなかで、東山道先鋒総督府から出された布達は次の通りである。
王政復古・天皇親政となり、おいおい万民が安堵(あんど)するありがたい政治を行なわれるべきところ、なにぶん朝敵を鎮定しないうちは、政治が行き届かない。これを幸いに、無頼の悪徒どもが人民をだまし、徒党を結び、罪のない富豪の家へ押し入り、金銀を奪い取り、あるいは難題を申しかけるのは、もってのほかのことである。だいいち、お上(かみ)の思召(おぼしめし)をもかえりみず、国法を侵して乱暴するのは、その罪が大きい。よって首謀者は逮捕のうえ厳罰に処する。しかし一般の百姓どもは、もとより悪人にそそのかされているのだから、改心して帰村し家業につけばその罪を許す。しかし、もし改心しなければ、残らず逮捕して処罰する。このむねをよくよく心得よ。(石井孝『戊辰戦争論』)
こうした無政府状態のなかで、われらの村もまたその混乱の渦に巻きこまれざるをえなかった。佐平太の日記は、二月四日に織右衛門から火薬をもらったことから始まって、一二月一二日に馬上砲という物騒な武器を購入することで終っているが、それは、この一年中、波瀾にみちた事件を繰返したこの村を象徴するかの如くである。
三月十四日には、高倉村名主勘左衛門から、打こわしの知らせがあった。翌十五日には高萩と坂戸からその様子を聞きにきた。これは多分噂にすぎなかったようである。
四月十五日、またもや高倉から、打こわしが駒寺野新田へ押寄せてきたと知らせてきたが、これは乱暴人が公然押寄せてきたのではなく、強盗がこっそり忍びこんだのだということが分った。打こわしの方が強盗よりこわい存在だと思われているわけである。戦々恐々とした名主の恐怖心が察せられる。早速、村中寄合って対策をたてた。もし強盗が来たら、人足を差向けることにするが、す早く逃げ出すことが肝要だと申し聞かせた。隣の高倉村に強盗が来たら、こちらから人足を出して助けるという約束をする。そして、三人の夜番をおくことにする。村の重要書類は隣家へ預けることにする。
閏(うるう)四月三日の夜、松吉方へ盗賊が来たが、退散した。翌四日にも同人方に盗賊に来たが、またもや退散した。どうも様子を伺いに来たものらしい。五日には、村の警備体制を整えることにした。
(イ)夜中、目印(めじるし)をつけること。(これは、晒(さらし)木綿を巻くか、つけることらしい)
(ロ)取締りをよくすること。
(ハ)悪者が来たら鳴(なり)をたてること。すなわち大声で叫ぶか、物音をたてる。
(ニ)竹貝を隣家で吹くこと。
(ホ)松明(たいまつ)を用意しておくこと。
(ロ)取締りをよくすること。
(ハ)悪者が来たら鳴(なり)をたてること。すなわち大声で叫ぶか、物音をたてる。
(ニ)竹貝を隣家で吹くこと。
(ホ)松明(たいまつ)を用意しておくこと。
十五日には、長州の浪人が金借りに来た。この夜、平吉が盗賊に出合い、殴られた。騒いだもんだから、村の者が集まってきた。
五月十五日、いよいよ本格的な盗賊が現れた。今月三日と四日に松吉方へ忍びこんだ盗賊が下見をした上で、此夜またもや現われて、家人二人を殺した上で放火したのである。被害者はもちろん、飼馬までも焼け死んでしまった。早速、村中で駆けつけて灰寄せ(骨あげ)をした。翌十六日までかかったが、高倉・下新田・藤金からも来て、手伝ってくれた。ところが、死馬の後始末の件で、番人は皮代二分、左儀代(焼却代か)、酒代二分をもらいたいと言い出した。厄介なことになったと思ったから、場主へかけあうと、両名主様からの仰せつけだから適当に取計らいましょうとのことで解決した。
二十八日の夜に、番人が正福院の門先で悪者三人と出会った。彼らは、別に怪しい者ではないから番をする必要はないという。それで、三人の先頭に立って帰宅した。しかし、才道木(さいどぎ)で(ほら)貝を吹いて、村中に知らせた。
六月八日、坂戸村名主大竹へ行く。四つ時(午前十時)川越様の御役人が囚人五人を引立て行くのに立会う。
七月五日には、関間新田の徳次郎の家に悪人どもが集まっているとの内報が届いた。
二十二日、関間新田の変死人を見舞いに行く。
二十八日、印形を持参して寄場へ行く。盗賊の引合人となることを免除されたので、その請印を押すためである。引合人とは、訴訟事件の関係者として、法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供する者のことである。
八月十二日、おときの話だと、しんが攫(さら)われたということである。
十三日の夜に、強賊が藤金の宮山に忍び込んだと、太田ケ谷の人足が知らせに来た。脚折・高倉・太田ケ谷・藤金から人足を繰(く)り出したが、捕まえることができなかった。
九月二十六日、囚人の番の才領に長蔵が行く。明日は惣右衛門が行くはずである。
十二月七日、大塚野新田に変死人があると、藤金新田の掃部(かもん)が知らせてきた。佐平太は藤金新田の名主も兼ねているからである。
徳川幕府の崩壊、新政府の誕生という過渡期のなかで、幕府の権威を背景にした諸施設は撤退の方向をたどり、新政府の対策は未だ実現されず、混沌(こんとん)とした無政府状態は当分つづいた。
四月十九日、石井村の寄場から回状が来たので、合給(あいきゅう)名主友左衛門と出かけると、官軍の軍用金を、高百石につき、米三俵と金三両出すようにとの話があった。しかし大惣代からは、銘々が自分の判断で出すようにとのことであった。次に、関東取締りの役人が、これからは廻村しなくなったので、悪者が多数往来するようになり、騒動を起こすにちがいない。川越御役所へ願い出て、取締りが行きとどくようにしたいと、惣代から話があって、一同得心(とくしん)した。
閏(うるう)四月廿六日、川越から御巡廻の御役人が三人来た。小者一人を連れて。道案内は吉野屋丹次と弥五郎・沢木である。お茶を出したあとで、三ツ木村へ送った。
五月二十一日、此日、大工の半次郎が来たので、穴蔵のようなものを作る。代三郎や伜(せがれ)・下男どもが手伝う。これは家財を暴徒から守るためである。六月三日に完成する。この穴蔵は、五味ケ谷と上広谷でも発見されている。
六月七日、夜番の人足を十二人出す。昼後には文助・平八も行く。この夜番は十人ずつ二組になって廻ることになっている。
六月八日、改革組合村の大惣代を勤める吉田村藤吉が言うには、川越城主松井周防(すおう)守様が御巡廻のときには、村役人の宅へ御立寄りの有る無しに拘わらず、その村を御通行のさい、道へ出て御機嫌伺いを申し上げるようにとのことであった。隣村へも伝えてくれとのことだから、合給の友左衛門へその旨話す。翌日、藤金村へも申し送りをした由である。
十八日、夜番を中止するかどうかで、合給名主友左衛門と相談した。その席上、手当のことも話題になったが、夜番は中止しないで、今少々続けることにした。
七月四日、新政府の民政裁判所より御触書が来たが、その写しを組合村から廻してきた。民政裁判所とは、裁判をする裁判所ではなく、民政一般を掌(つかさど)る役所である。幕府時代の勘定奉行所と同じ。
十七日、今まで支出した取締り入用や、ろうそく代、その他の入用は、村民全員に負担をかけず、重(おも)立った百姓から徴収することになった。もっとも、(夜番の目印(めじるし)に使った)晒(さらし)し木綿の費用ほどではなく、幾分減らすようにと申し渡した。
九月十五日、巡察使からの写しの廻状が来た。巡察使とは、新政府早々のこととて、地方制度が府・藩・県が同時に存在する「三治制」であったので、それを統一するため、また役人の横暴を矯(た)めるために設けられた地方監察官のことである。
十二月十五日、馬上砲一挺を代金一両三分出して買った。
二十四日には、番人と夜番の手当について、米を持高一反につき米五合、小麦なら一升ぐらい出すことにした。