五月十八日 此日、官軍御人数、坂戸へ来る。周防(すおう)様(※)御人数大勢御附添い。
※ 川越城主松井周防守庚英
十九日 飯能辺に居り候脱走人、そのまま逗留の噂(うわさ)これあり。
廿日 夕七つ時(四時)頃、官軍人数寺山(川越市内)まで御進みの由。
廿一日 飯能に居り候脱走の人、坂戸へ向かい候由の風聞これあり。坂戸より川越役所へ注進の由。右につきことごとく、坂戸より当村・浅羽辺混雑。それぞれ取片付け申し候様子。
廿二日 川越様より鹿山(かやま)辺へ御出張の噂これあり。坂戸へは前橋様・高崎様(※)御出での噂あり。
夜四つ時(十時)頃より、飯能辺に合戦これあり。
※ 前橋藩主一七万石の松平直克(なおかつ)は慶応三年一月川越藩より移ったばかりである。高崎藩主八万二千石大河内輝照(てるあき)は寛永年度川越藩主伊豆守信綱の子孫である。
廿三日 快晴。昨夜のまま鉄砲の音止むことなし。昼四つ時(十時)頃にて止み申し候。もっとも、昼八つ時(二時)頃より小一時(いつとき)、大砲の響(ひびき)これあり。浪士はその節、請(う)け鉄砲打ち申さざるよし。何方(いづかた)へ散乱いたし候や、相知れざる噂これあり。
此日五つ半時(九時)頃、友左衛門(相給名主)殿方へ行く。高倉にては焚(たき)出しの白米を支度いたし候よし。当村も往来附にこれある上は、官軍方・浪士方、何れか立寄り申すべくも計り難く、その節焚出し等の義、如何仕るべきや申し談じのところ、支度いたし然るべき旨申さる。不用に成り候はば、それ程結構の義はこれなくと申さる。拾石(持高拾石)辺の百姓は、白米弐斗ずつ用意いたし候よう申し達し候。その外の義は、又四郎・平八・重次郎等へも壱斗ずつ用意いたし候よう申し達し候筈(はず)。
高萩にては、昨夜より今日、焚出し相勤め候よし。