振武軍の切込隊長渋沢平九郎は年齢わずか二二才であったが、飯能戦争で奮戦した模様は、「飯能青蠅」によると次のようであった。
賊徒隊長、今朝、笹井河原の戦いに、左の臂(ひじ)を切られ、馬上ながら能仁寺の本陣に引取り、医師を呼び、治療を乞うに、隊長一間(ひとま)に蒲団をしき、横臥したるをようやく起こし診察するに、血絡(らく)(血管)を切られ、出血流るる如し。急速のこと焼酎にて洗うに暇なく、側にありあう手桶の水を汲み、血を洗い落し、疵(きず)口を縫うに出血ますます甚しく、手術も尽き、ようやく三針縫いけるに、糸ふっしと切れたり。その内、砲声しきりにとどろき、玉(弾丸)も散乱し、なお官軍は智観寺を落とし、一同門外に迫るとの注進に驚き、針を捨て、白布を以て疵口を巻き縛り、そのまま立ち出でける。詰めあう軍勢は一同勢揃いをいたし、各々縁側に立ち出で、敵寄せ来らば打砕かんと控えるとき、敵いずくまで進めるか、かの羅漢山(天覧山)に拵(こしら)えおける望楼に参り伺わばやとて、三、四丁行き、物見に登り軍容を望むに、霞たなびき更に分らざるところに、砲声間近く聞こゆるのみ。そのとき一発、百千の雷一度に落つるようにて、羅漢山に打ちこまれたり。
このような追討軍の砲火の前に、潰乱した振武軍は北西方面の山伝いに落ちのびていったが、平九郎は、気がついたら一人ぼっちになって顔振(こうぶり)峠を歩いていた。しかし、峠を下った黒山で、芸州藩兵に行手をふさがれた。最後の死力を尽して乱闘したが、ついに力尽きて自刃した。その崇高な自刃の模様は、平九郎の死を痛惜するあまり、可能な限りその足跡を追究したという宮崎三代治氏に語ってもらう。
岩の上はちょうど人一人座れるだけ平らになっており、彼はようやくのことでそこへ上った。そして、生死の境を超越した鬼神のような形相(ぎょうそう)で胡座(あぐら)を組み、ついに目と鼻の先にまで迫った官軍方の追手どもをジッと睨(にら)みすえ、あらん限りの大声を発した。
『官賊どもめ、これから、東国武士の潔(いさぎよ)さをお目にかけるから、よく見ておけよー』
岩の前方をグルリと取り囲んだ官兵たちは、あまりにも大胆不敵な平九郎の態度に、ただただ度胆(どぎも)を抜かれ、なすこともなく唖然(あぜん)として見入っていた。
平九郎は、そうした官兵どもを尻目に、ザンバラ髮をゆっくりと撫(な)でつけながら、故郷榛沢(はんざわ)の彼方を悠然と仰ぎ、静かに瞼(まぶた)を閉じた。そして、脳裏に次々と浮びくる人たちに最後の別れを告げた。
〔註〕
(1) 「飯能青蠅」は、筆者不明であるが、慶応四年六月の記述である。『飯能郷土史』所載。
(2) 振武軍の幹部は、渋沢・尾高の両家で占めているが、両家は親戚であり、尾高惇忠の藍香書院の影響を受けている。その系譜は次のようである。
〔参考文献〕
宮崎三代治『飯能戦争に散った青春像 郷土の志士渋沢平九郎』
飯能国民学校『飯能郷土史』
太田俊穂『戊辰戦争事典』
原口清『戊辰戦争』
石井孝『戊辰戦争論』