慶応四年(一八六八)
六月十九日 昼頃、正福院来る。職道の事、漸やく相分り候旨申し来り、何分頼む旨申され候。神職になりたきよし。
明治元年(一八六八)
十一月十七日 宮の隠居来り、復飾披露(ふくしよくひろう)の話これあり候。役付村中招き候ては如何と申し候。
十九日 宮披露に行く。
二十日 宮本より願書と継添(つぎそえ)の義、如何様の文言にて然るべきやと申し、内々求め候間、書取り遣わす。
この日記は、白鬚神社の別当を勤める正福院が、新政府の達(たっし)によって復飾(還俗)し、神職になることを決心して、名主佐平太に相談したことを記したのである。
この達は、慶応四年三月一七日に出された「神祇事務局より諸社へ達」のことである。
このたびの王政復古の方針は、悪い習慣を一掃することにあるので、全国各地大小の神社のなかで、僧の姿のままで別当あるいは社僧などと唱えて、神社の儀式を行っている僧侶に対しては、復飾を仰せつける。もし復飾がどうしてもできない場合は、神祇事務局に申し出るように。但し、別当・社僧が復飾した場合は、これまでの僧位・僧官を返上すべきは勿論である。なおまた、神主の地位については追って沙汰(さしず)をするので、当分の間、衣服は白衣を着て神社の司祭をつとめるようにせよ。
という趣旨の命令である。
江戸時代、神社の多くは寺院僧侶の手によって管理されており、僧侶が社僧・別当などと称して、神社の神主の役割を演じていた。ところが明治維新になり、神と仏とを分離したため、神主を兼帯していた僧は、一応還俗(げんぞく)するようにと指示したのがこの達(たっし)である。
この達にもとずいて、正福院は九月になって復飾願を鎮将府に提出したが、願いの通り許可されたのであった。村の役人を招いてその披露をしたのが一一月一九日であった。
※ 京都の太政官に対して、東京には鎮将府をおいて、民政一般をつかさどった。慶応四年七月一七日に開設され、同年(明治元年)一〇月一八日には廃止されたので、わずか四か月しか存在しなかった。
その復飾願は次の通りである。
以二書付一奉二願上一候
武州高麗郡脚折村鎮守白鬚明神、古来より別当職仕来り候ところ、今般御一新につき、御布令(ふれ)の御旨、誠に以て有難く敬承し奉り候。これによって速(すみ)やかに復飾神勤仕(つかまつ)りたく、この段お願い申し上げ奉り候。かつまた、復飾の上は、姓名を宮本貢と相改め申したく候の間、よろしく御沙汰(さた)(さしず)なし下され候よう、偏(ひとえ)に願い上げ奉り候。以上。
聖護(しようご)院宮末流(まつりゆう)
慶応四辰年 武州高麗郡脚折村
九月 本山修験 正福院
鎮将府
御伝達所
これに対し、鎮将府は許可を与えている。「願の通りたるべき事」という符箋が添えられている。
なお、同年閏四月一九日には、神職の者はその家族にいたるまで神葬祭に改めるよう布達された。
以二書付一奉二願上一候
一今般復飾仰せつけられ候上は、一家の内男女共、都而(すべて)神道を以て葬祭仕りたく、この段お願い申し上げ奉り候。以上。
武州高麗郡脚折村
慶応四辰年九月 本山修験 正福院
鎮将府
御伝達所
これにも「願の通りたるべき事」の符箋が添えられている。
これより一年おくれて、明治二年九月には、三ツ木村の大宝院も願書を出している。
武州高麗郡三ツ木村鎮守白鬚大明神別当本山修験大宝院栄膳申し上げ奉り候。
今般王政御一新に就ては、神仏混淆(こんこう)致させざるよう仕るべき旨、御達の趣き拝承し奉り、これによって氏子一同相談の上、私義復飾願い上げ奉り、御聞きずみの上、宮本栄膳と改名いたし、尤(もつと)も白鬚神社と改め、奉幣切剥(は)ぎ、神事・祭礼等はもちろん、すべてこれまで通り、社務進退(しんたい)(支配)仕り、以来、私身分ならびに家族のものども、神葬祭に執行候よう仕りたく存じ奉り候。何卒(なにとぞ)御仁恤(じんじゆつ)(あわれむ)を以て、右願の通り御聞きずみなし下しおかれたく願い上げ候。以上。
武州高麗郡三ツ木村
鎮守 白鬚大明神
別当 本山修験
明治(二)巳年 大宝院
九月 栄膳
氏子惣代
百姓代
太四郎
村役人惣代
名主
兵右衛門
韮(にら)山県
御役所
慶応四年以前は、全国いたる所で、お寺と神社とは同居していた。有名な寺社では、日光の東照宮と輪王寺、奈良の春日神社と興福寺、大津の日吉神社と延暦寺などがある。祭神・本尊すら同じものを使用している例も少なくなかった(※)。そして、それを信仰する人々の生活の場は、寺も神社も全く同じである。民衆は神と仏は同じように崇(あが)めていたわけである。苦境に追いこまれると、人々は「神も仏もないものか」とか、「神仏の加護により」といった言葉を口にする。神と仏の区別なくご利益(りやく)にあずかればよかったのである。
このような考え方を、本地垂迹(ほんちすいじゃく)の思想というが、これは、神は仏の化身(けしん)とみる考え方であり、古くから日本人の観念として固定していた。この本地垂迹(すいじゃく)の思想から生れたのが、神仏習合である。神に権現という称号が与えられるのは、本地の仏・菩薩が権(かり)に垂迹の身をあらわしたという意味である。逆に、お寺の境内にお寺を守るために神が祭られるようになった。これが鎮守である。
※ 幕府時代には神社といっても、皆仏教と関係がありました。神社の神霊が、実は、仏・菩薩の図像でありました。相模の大山(だいせん)でも、箱根でも、伊豆の走湯(はしりゆ)山でも、越後の弥彦山でも、みな神霊がなく、仏・菩薩の図像が安置されておりました。大山の如きは、阿夫利(あふり)神社といい、大山祇命(おおやまずみのみこと)を祭ってありましたが、古くから奥院の大きな石の仏像が代って神霊とされ、石尊とよばれていましたが、四十七院といって、四十七か所の寺院があり、無数の仏・菩薩の図像が安置せられておりました。そこへ神祇省から役人が出張して、神仏分離ということで、仏教関係の器具を取出し、一昼夜の間に、四十七院を始め、諸堂守を焼き尽しました。(『仏教史学』)
このように、古くから日本人の固定観念として、また習俗として定着していた本地垂迹や神仏混淆が、なぜ明治維新のさいに急速に廃止を強制されたのであろうか。それは、明治維新の政治的・思想的な重大方針の根底となっていたからである。
明治維新の政治的理想は王政復古であった。最初は建武中興の精神に則(のっと)る方針であったが、国学者の熱心な主張によって、神武創業の精神を基調とすることに改められた。この徹底した復古思想の主流をなすものは、単に徳川の武家政権を廃して、天皇親政の古(いにしえ)に復するというだけでなく、復古神道にもとづく祭政一致であった。その必然的な結果として、神祇官が再興され、上代の古神道に帰るための神仏分離が強行されたのであった。
慶応四年三月一三日の布告は、次のように述べている。
この度、王政復古、神武創業の始めに基(もと)づかせられ、諸事御一新、祭政一致の御制度に御回復遊ばされ候については、先ず第一、神祇官御再興御造立の上、追々(おいおい)諸祭典も興(おこ)させらるべき儀、仰せ出だされ候。(以下略)
そして、全国の神社と神職は、神祇官に附属さるべきものと定めている。この布告は、その後の宗教政策のための最も基本的な原理を宣言したものであった。
この布告にすぐつづいて、三月一七日には社僧・別当禁止の達を全国の諸社に発したが、これについては先に述べた。
閏四月四日には、別当・社僧などは、還俗(げんぞく)の上、神主・社人などと改称して神に仕え、それに不得心(ふとくしん)の者は立退くように命じられ、同一九日には、神職の者はその家族にいたるまで、神葬祭に改めるよう布達された。
これらの布告が、神に仕える者の神仏分離であるに対し、礼拝対象についての神仏分離が、三月二八日に布達された。これが「神仏判然令」といわれるものである。
一、中古以来、某権現(ごんげん)あるいは牛頭(ごず)天王の類(たぐい)その他、仏語(ぶつご)を以て神号に相称(とな)え候神社少なからず候。何れもその神社の由緒(ゆいしよ)を委細(いさい)書きつけ、早々申し出ずべき事。
一、仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申し出ずべき事。
付(つけたり)、本地抔(ほんちなど)と唱(とな)え、仏像を社前に掛け、あるいは鰐口(わにぐち)・梵鐘・仏具等の類(たぐい)を差しおき候分は、早々取除き申すべき事。
このような、明治新政府の神仏分離政策は、全国的に、また急激に徹底して実行に移された。「けだし、本邦に仏教あってより千五百年、かくの如きの令を聞かず」(福田行誡『江東雑筆』)というほどきびしく実施されたのであった。
この神仏分離は、政府の意図するところは、必ずしも廃仏ではなかった。しかし勢いのおもむくところ、ついに全国的な廃仏棄釈の暴挙へと発達した。これまでは常に、仏教的なものが主で、神道は従の立場にあり、神道は仏教の風下に立たされていた。これは一つには、神道には仏教のような教義や修行がなかったためでもあるが、経済的にも広大な寺領をもち、多数の檀徒をもつ寺院に対して、神社はそれに比較して劣勢にあった。決定的に寺院を有利にしたのは、江戸時代以降、葬式が仏教で独占的に行われたことである。そのきっかけはキリスト教禁止令であった。幕府は島原の乱の結果、キリシタンは神敵・仏敵であり、もしこの教えがひろまったならば、たちまち天下の民は謀反を企てるであろうとして、寛永一五年(一六三八)キリシタンを厳禁したが、その実をあげるため、寺請制度を定め、宗門人別改帳を作製させることにした。寺請制度とは、一家一寺の檀家制を確立して、キリシタン信徒ではないことを、その檀那寺に証明させたことをいう。庶民は婚姻・旅行・移転・奉公などには必ず檀那寺の寺請証文を必要とすることになった。宗門人別改帳は、その家の檀那寺、戸主以下の家族の名と年令、妻の実家、娘の嫁ぎ先などを書いて、戸主の判を押した上、檀那寺でこれを証明する印形を受け、宗門改め役に提出させた。
このような寺請・宗門人別改帳の制度によって、寺院はキリシタン禁制のお目付役、兼、全国戸籍係となってしまったが、一方、寺院はこの権力を活用して、檀家と寺との関係を強固に結びつけた。そして、寺の経済的基盤として檀家を位置づけ、住民は葬式檀家として固定されてしまった。
このような仏教界の現状に対して、火の手をあげた国学者たちの間から主張されたのは復古神道であった。それは、愛国的信仰を説き、民族性を尊重し、祖神に対する純真な信仰を強調するもので、当然、仏教が優位に立つ神仏混淆を排撃することに主力を注いだ。
この復古神道の代表者は平田篤胤(あつたね)であったが、その門流で、直接・間接に復古のために働いた者には、平田延胤・師岡正胤・丸山作楽(さくら)等を数えることができる。越生出身の神道界の大物、権田直助もその内の一人である。彼は神田小川町に塾を開いて、塾生八〇人ばかりを抱えていたが、その高弟下田義照が権田について思い出を書いている。
権田直助は初めは刑法官でありましたが、後に大学中博士となりました。
平田父子、権田、丸山などの国学者は、皆、皇学を鼓吹して、仏儒二教を排撃しました。しかし、仏教は幕府時代に物質上の勢力も強大でありましたから、ことに排撃に力を用いました。
塾生はみな旺盛な元気がありましたので、往々にして粗暴の行動を顧みないようでありました。毎日市街を散歩し、小路に安置せらるる石地蔵などを見れば、必らず破壊したもので、もし一個でも見逃せば、大恥辱でもあるように思うておりました。諸国には寺塔に火を放ったことも聞きましたが、近隣が危険ですから、火を放った者には制裁を加えられました。しかしながら、仏像・仏具を焼き棄てたり破壊した者には、何の制裁も加えられませんでした。ほとんど乱暴の仕放題(しほうだい)でありました。(『仏教史学』)
これに対して、同年四月一〇日には「太政官布達」が出された。「政府の意図に反し、乱暴な廃仏毀釈」へ暴走することへの警告である。
古くから社人と僧侶は仲が悪く、氷と炭のような間柄であった。ところが、この頃になって社人が急に権威を得て、表向きには明治政府の命令と称し、実際には私憤を晴らすようなことがあるという。これは御政道の妨げになるだけではなく、様々な紛擾(ふんじょう)を引起すことになる。
更に、同年(明治元年)九月一八日には、仏教側に反政府運動が起こることを心配して、重ねて神仏判然の趣旨を宣明する布告を出した。
神仏を混淆しないように、先日布告を出したが、これは決して仏教を排斥するという意味ではない。僧侶たちがやたらに復飾(還俗)するのが目立つが、これはいわれなきことである。
政府の極力警戒するのは、仏教の衰微はその代償として、キリスト教の興隆を招きはしないかということであった。世界の大勢という維新の立場からすれば、キリシタンを邪宗門とする幕府以来の伝統を保守することは、矛盾に満ちた宗教政策であり、その点からすれば廃仏こそは最も恐るべき利敵行為であるからである。
民衆としても、寺と檀家との関係は緊密に結ばれており、年中行事と重なりあう形で、生活の場に定着しておるのを、時勢が変ったからといって、寺を潰してしまえといっても無理な話である。先祖のお墓を守ってくれるのが寺の僧侶である限り、神主がいかに排斥しても、寺を破却するのに手を貸すことはできない。
神仏分離の功績は、社僧の下にくすぶっていた神主の地位を、社会的に高めたことであり、一方これを機会に失ったものが数多くある。多数の寺院が放火、焼失し、貴重な什物(じゅうもつ)・古文書(こもんじょ)・記録・仏像・経典・絵像など、枚挙にいとまがない。