当町内で明治維新を迎えた神々は左の通りである。
町屋村 神明社・稲荷社
上新田村 山王社(日枝社)
中新田村 神明社・稲荷社・愛宕社・山神社
下新田村 稲荷社
高倉村 山王社(日枝社)・熊野社・天神社(神明社)・浅間社・稲荷社
脚折村 白鬚社・雷電社・八幡社・天神社・愛宕社
三ツ木村 白鬚社・牛頭(ごず)天王・愛宕社・弁才天社・稲荷社・八坂社
太田ケ谷村 熊野社・伊勢社(神明社)・稲荷社・天神社・山王社
藤金村 氷川社・八幡社・弁天社・稲荷社
上広谷村 氷川社・神明社
五味ケ谷村 天神社・神明社・氷川社・愛宕社
大塚野新田 八幡社
(『新編武蔵風土記稿』『武蔵国郡村誌』による)
当町内では、神社の奉祀者は別当一人だけであって、別に神職がいるわけでもないし、その別当も純粋な僧侶ではなかった。彼らの多くは神道・仏教の混淆した修験者であったから、有名大社のような感情的になった激しい僧侶と神官との争いの生ずることはなかった。別当は復飾して、仏教色を棄て去れば、「神事・祭礼等はもちろん、すべてこれまで通り、社務を進退する」ことができたのであった。
当町内の神社に奉祀した神職は表―1の通りであるが、この全員が明治初年の神仏分離にかかわっているわけではない。確認できるのは、町屋の大徳氏、高倉の小川氏、三ツ木の宮本氏、脚折の宮本氏、太田ケ谷・藤金の伊藤氏で、その他の神職に関しては未詳である。
表5-1 鶴ケ島の神社と神職 |
神社名 | 村名 | 神職名 | 住所 | 資料年代 | 備考 |
神明 | 町屋 | 大徳周乗 | 森戸 | 明治五年村社。 | |
現在、町屋の住民は森戸の国渭地祗神社の氏子。 | |||||
日枝 | 上新田 | 中島金吾 | 森戸 | 明治四年九月、宇山王前より現在地に遷座。 | |
明治五年村社。 | |||||
神明 | 中新田 | 中島金吾 | 森戸 | ||
石川正作 | 厚川 | ||||
小塚秀康 | |||||
稲荷 | 下新田 | 石川章 | 厚川 | 明治五年村社。 | |
日枝 | 高倉 | 小川蔀 | 高倉 | 明治五年村社。 | |
林慶三郎 | 脚折 | ||||
中島金吾 | 森戸 | ||||
白鬚 | 脚折 | 宮本貢 | 脚折 | 明治五年村社。 | |
白鬚 | 三ツ木 | 宮本栄膳 | 三ツ木 | 明治五年村社。大正二年高徳神社に合祀。 | |
林諦龍 | 脚折 | ||||
熊野 | 太田ケ谷 | 伊藤保 | 笠幡 | 明治四五 | 明治五年村社。大正二年、高徳神社に合祀。 |
氷川 | 藤金 | 伊藤保 | 同 | 同 | 明治五年村社。明治一〇年焼失。大正二年高徳神社に合祀。 |
氷川 | 上広谷 | 明治九年地租改正の際、五味ケ谷に編入。 | |||
「風土記」によれば、上広谷村・五味ケ谷村の鎮守。 | |||||
当時、正音寺持、大正二年高徳神社に合祀。 | |||||
白山 | 上広谷 | 上戸興善 | 上戸 | 明治二四以前 | 無格社。 |
八幡 | 大塚野新田 | 新井貞 | 明治四五 | 明治五年村社。 | |
八幡 | 戸宮 | 三芳定 | 明治四五 | 明治五年村社。 | |
新井九七吉 | 大正四 |
慶応四年、新政府による神仏分離政策が強行されるまでは、われらの村では修験道が民間信仰として深く浸透していた。村には、天台・真言・禅宗などの宗派仏教が多いのに、なぜ民衆はそれら寺院宗教以外の信仰に魅せられたのであろうか。その原因は寺檀制度によることが多い。寺檀制度とは、既述のように、キリシタン弾圧のため、宗門改めを直接の動機として創設されたものであるが、宗門人別帳の記載が統一されたのちは、この制度は、単に邪宗門禁制の手段だけでなく、民衆の生活をすみずみまで監視する役割を努めることになってしまった。そして、民衆に対して檀家として、宗教選択の自由を決定的に奪い去った。一方、檀那寺の方は、その活動を菩提寺の枠に閉じこめられて、葬式仏教に専念するようになった。そうなると、民衆は現世利益を追求する願いを、邪宗門として禁制の対象とならなかった民間宗教に托して、御師(おし)・山伏などの祈祷師・呪術師に救いを求めるようになった。その結果、民間宗教者たちに特有の習合的な諸神仏と、呪術が、民衆の宗教として深く根を張るようになった。
民間信仰の担い手は修験・山伏であり、その信仰は修験道であった。民間に深く根をおろしていた修験道とは如何なる宗教であるだろうか。
仏教渡来以前のわが国には、固有な山岳信仰があったが、その信仰は二種類に分れていた。一つは、山には魔霊がひそんでいて、里人の災厄はそこから下りてくるものだとして、畏怖する考え方であり、二つは、山は天の神が降臨し、里人に恩恵を与える神霊がそこに在るものとして崇拝する考え方である。この二番目の考え方から、支配者の立場のものの死霊は、山中の他界に赴くものだという考え方が一般化するようになった。そこへ仏教が渡来すると、仏教の密教が習合して修験道が成立したのであった。特に、天台・真言の密教徒によって組織的なものとなったが、修験道の儀礼や、修験者である山伏の作法には、仏教にはない精進・潔斎・参籠(さんろう)・奉幣などの神道儀礼も含まれていた。また、中世から近世に入ると、陰陽道(おんみょうどう)の卜占(ぼくせん)・呪法(じゅほう)までも取り入れるようになり、日本人の民間信仰は修験道に独占されるくらいになった。中世までは山間に籠(こも)って魔障克服のため、密教的験術(げんじゅつ)を修練した修験者は、貴族社会の現世利益の要求に応じるとともに、浄土教信仰を取り入れて、念仏聖(ひじり)ともなっていった。
修験道の開祖には、大和葛城(かつらぎ)山にいて、優れた呪術師と知られた役小角(えんのおづぬ)を、役行者(えんのぎょうしゃ)としていただき、真言宗系の験者(げんざ)は、醍醐(だいご)寺の聖宝(しょうぼう)を中興の祖と尊んだ。その根本道場は、吉野・大峯(おおみね)・熊野の連峯が第一に考えられ、山伏は大峯入りを何回重ねたか、その度数の多いのが上層にランクされた。しかし、日本列島の山岳には全国到るところ修験の霊場が開かれた。中部では越中立山・白山・戸隠、関東では伊豆箱根・日光補陀落(ふだらく)山、東北では出羽三山が特に重要視された。
各地に山伏の修行が発展した中世には、彼らの組織化が進み、天台系の本山派と、真言系の当山派、その他と大別されることになった。
本山派は園城(おんじょう)寺(三井寺)末の聖護(しょうご)院、当山派は醍醐(だいご)寺の三宝院を本拠とした。それぞれ、行儀作法を異にするが、峯入りの経路も同一ではない。前者は熊野側から入り、後者は吉野側から入ることになっていた。
修験者の霊山に上ると、いろいろな行場(ぎょうば)が用意されていた。岩から岩へ飛び移ったり、あるいは、断崖絶壁の上に突き出た大きな岩の上に身を伏せて、下をのぞきこむというようなことも行なわれる。山中の堂舎を宿坊として泊りこみ、読経(どきょう)や加持(かじ)祈祷につとめたり、野外に出ては高く積み上げた護摩木(ごまぎ)を焚(た)いて、数珠(じゅず)をもみもみ真言を唱える。そうした類の、主として真言密教にもとづくさまざまの精進を、山全体を道場として行なうのである。これによって法力を身につけ、人間として悟達の境地を求めるのである。このような激しい修行をしている山伏であればあるだけ、彼らが行なう呪術的作法、いわゆる加持祈祷は、すこぶる霊験あらたかのように信ぜられていた。
江戸時代になると、修験者あるいは山伏は、山岳修行者としてよりも、民間の御祈祷師として、そういう意味での「行者」として人々の目に映ることが多くなった。彼らは不動明王の像をおいた堂をもって、農村に定着し、人々の病気をなおしたり、憑(つ)きものを落したり、吉凶禍福の判断のため、予言のため頼りにするほか、何か失物(うせもの)があったときにも、占ってもらうような相手として、民衆生活に密接なつながりをもっていた。
要するに、江戸時代の山伏には、ピンからキリまで種々の種類があった。なお中世的な果敢な山岳修行に専念する修業本位の山伏、神社奉祀に専念する修験者があるかと思えば、村のなかに院坊をもって、近在の民家を檀家として、招かれて祈祷に出かける、あるいは、遠方への山参りなどの代参をしたり、代願人となったりする山伏もいた。
山伏はそういう活動をするので、村人にとっては、村の医者であり、また、村のいざこざを調停する判事であったりした。その活動面を一般的にいうと次のようであった。
日待・月待・庚申(こうしん)待・荒神(こうじん)(かまどの神)などのまつりの際の導師、さまざまな加持(かじ)祈祷、例えば調伏(ちょうぶく)(悪魔・敵をおさえる)・憑(つ)きものをおとし・火伏せ・金神(こんじん)(方位の神)除け・虫ばらい・盗賊よけ・疱瘡(ほうそう)のまじない・狐退治・蛇よけ・止雨・請雨(しょうう)(雨乞い)・月経加持・安産・夫婦離別の呪いなどの符呪(ふじゅ)やまじないである。こうした呪術宗教的な活動を盛んに行ったので、村人にとっては、親しむべく、恐るべき存在であった。
山伏は、次のように組織づけられていた。
先達年行事(せんだちねんぎょうじ) 諸国の〝霞(かすみ)〟ごとにおかれて、〝霞下〟を支配し、秩序づけた。
霞 山伏の檀家組織をいう。いわば縄張りである。霞ごとに先達年行事がおかれた。
霞下 先達の下にある年行事や社僧などをいう。
先達 一国ないし二国を支配する有力な修験者であり、年行事を支配した。笹井(ささい)(狭山市)の観音堂、西土(さいど)(毛呂山町)の山本坊は、本山派の大先達であって、武蔵国大先達六か所のうちに数えられた。
尚、当町域の修験は『新篇武蔵風土記稿』によれば次のようであった。
太田ケ谷村
観宝院 当山修験、入間郡川越龍眼院配下。
般若院 当山修験、入間郡玉泉寺配下。
脚折村
正福院 八幡山と号す。本山修験、篠井村観音堂配下なり。
下新田村新田(総戸数五戸のうち、修験三戸)
華厳院 当山修験、入間郡小久保村教法院の配下なり。
清宝院
常福院 当山修験、入間郡大仙波万仁坊の配下なり。
南蔵院 当山修験、同郡入間村延命寺の配下なり。
三ツ木村
大宝院 本山修験、入間郡森戸村山本坊配下。
〔参考文献〕
『明治文化史』宗教編
圭室文雄『神仏分離』
宮家準『修験道』
和歌森太郎『山伏』
和歌森太郎『修験道史研究』
宮田登・宮本袈裟雄編『日光山と関東の修験道』
体系日本史叢書『宗教史』
宮本袈裟雄『里修験の研究』
『明治文化史』宗教編
圭室文雄『神仏分離』
宮家準『修験道』
和歌森太郎『山伏』
和歌森太郎『修験道史研究』
宮田登・宮本袈裟雄編『日光山と関東の修験道』
体系日本史叢書『宗教史』
宮本袈裟雄『里修験の研究』