1 武蔵県より埼玉県へ

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 埼玉県が現在の管轄地域をもつ一つの行政区域となったのは、明治九年八月であるが、その成立までには、目まぐるしい程の紆余(うよ)曲折があった。
 慶応三年(一八七六)一二月、王政復古を宣言した新政府は、翌四年三月に五か条の御誓文を宣布し、つづいて閏四月二一日には「政体書」を公布して、抽象的な綱領にすぎなかった御誓文を具体化した。それによると、地方統治については、没収した旧幕府領・旗本知行地は新政府の直轄地とし、江戸や京都・大坂・甲府などの所司代・城代・奉行などが管轄していた重要な地域は府(全国九か所)とし、その他は県(全国二〇県)に分けて、新たに知事を任命した。そして、大名領の藩は急進的な処置を避けて、もとのまま藩主の領有を認めることにした。
 埼玉県内では当時、川越・忍(おし)・岩槻の三藩があったが、別に半原(岡部)・前橋・高崎の国外藩の分藩があった。
 明治二年の段階で県内にあった県は、岩鼻県・韮山(にらやま)県・葛飾(かつしか)県・小管県・大宮県(のちに浦和県)・品川県の六県であった。しかし、当時の県内には旧藩の領地が飛地として散在し、また、新設の県の管轄地も一か所にまとまっていたわけではなかった。それで、管轄地の変更がそれ以後も繰り返されたが、明治四年七月の廃藩置県の結果、中央集権体制が確立され、ようやく地方行政区画を整理する機運が熟した。同年一一月、埼玉県の地域は、埼玉県と入間県の二県に統合されることになった。
 埼玉県の範囲は、埼玉郡全域と、葛飾郡・足立郡の北部一帯を含むことになった。入間県は荒川より西部と、熊谷以北である。県庁の所在地は、入間県は川越、埼玉県は浦和であった。
 県の区域は、その後、幾度かの曲折をへて、明治九年八月、現在の埼玉県が成立した。その曲折の主なものは次の通りである。
六年三月 群馬・入間両県を合わせて熊谷県とし、熊谷に県庁をおいた。
九年八月 熊谷県を廃止して、その武蔵国に属する部分を埼玉県に合併した。
 このように、明治九年に埼玉県が誕生するまでの生みの軌跡を、当町内の旧村々にたどると、表―3のようである。
表5-3 武蔵県より埼玉県へ
時代江戸末期明治元年六月二年二月一二月四年一一月六年六月九年
村別
町屋御料武蔵知県事品川県韮山県入間県熊谷県埼玉県
上新田御料武蔵知県事品川県韮山県入間県熊谷県埼玉県
中新田御料武蔵知県事品川県韮山県入間県熊谷県埼玉県
下新田御料武蔵知県事品川県韮山県入間県熊谷県埼玉県
高倉土井領古河藩古河県・群馬県入間県熊谷県埼玉県
御料武蔵知県事品川県韮山県
脚折旗本釆地武蔵知県事品川県韮山県入間県熊谷県埼玉県
脚折新田御料
三ツ木土井領古河藩古河県・入間県熊谷県埼玉県
三ツ木新田御料武蔵知県事品川県韮山県入間県
太田ケ谷旗本釆地武蔵知県事品川県韮山県入間県熊谷県埼玉県
藤金旗本釆地武蔵知県事品川県韮山県入間県熊谷県埼玉県
御料
上広谷川越領前橋藩前橋県・一〇月群馬県・一一月入間県熊谷県埼玉県
御料武蔵知県事品川県韮山県入間県
五味ケ谷川越領前橋藩前橋県入間県熊谷県埼玉県
御料武蔵知県事品川県韮山県
戸宮川越領前橋藩前橋県・入間県熊谷県埼玉県
大塚野新田御料武蔵知県事二月品川県八月韮山県入間県熊谷県埼玉県