武蔵県の誕生以後

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江戸時代の旗本采地(知行地)や、幕府直轄の御料は、「府藩県制」によると、当然、県に属することになった。それが武蔵県である。しかし、武蔵県は特に一行政区画をなすものではなかった。江戸の朱引内の区域を囲むように代官支配地があったが、県に属するとき、仮りに三人の旧代官をそれぞれ知県事に任命し、その総称を一時的に武蔵県と名づけたのである。従って武蔵県には知県事が三人いたわけである。
 その後まもない明治二年一月中頃から二月上旬にかけて、前記三名の知県事がそれぞれ旧代官時代の支配区域を受持つことになり、武蔵県は三分された。すなわち、小管県・大宮県・品川県(大宮・品川の二県は同年二月九日成立)である。品川県庁は北品川の東海寺本坊におく予定であったが、当分、日本橋浜町河岸におくことになった。そして、知県事は旧幕臣を更迭して、新政府方の官吏を登用した。古賀一平は佐賀藩士であり、河瀬は宮津藩士である。
 この品川県は、東京の西南部から多摩地方、更には当地方にまでまたがる広大な地域を占めていたが、のちに一部は東京府、一部は神奈川県、他の一部は韮山県(のち入間県・熊谷県・埼玉県)へと三分割された。
 明治三年に、品川県の管轄が、韮山県へ移管されたのは、品川県が廃止されたからではなく、編成替えにもとづくものであることは、「品川県史料」によって推測される。「明治二年二月以降、廃藩置県にいたる短期間中にも、品川県・韮山県・神奈川県、相互の編成替もあるので、品川県地域を確定するのは、すこぶる困難である。」
 品川県そのものは、四年七月の廃藩置県まで存続したのである。
 韮山県は、旧代官江川太郎左衛門の支配する地域であった。