1 最後の宗門人別帳

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 農民には苗字はなかったと、一般には信じられている。はたしてその通りであろうか。天明二年(一七八二)三月、勘定奉行の下札(さげふだ)(付箋)に「御料所では、特別な由緒や、奇特な儀があって許した場合のほかは、百姓に苗字を名乗らせるな」とある。また、享保元年(一八〇一)七月の御触書(『徳川禁令考』前集四四)に「百姓・町人、苗字相名乗り、並びに、帯刀致し候儀、その所の領主・地頭より差し免(ゆる)し候儀は格別、用向き等相達し候とて、御領所はもちろん、地頭の者より猥(みだ)りに苗字を名乗らせ、帯刀致させ候儀は、これあるまじき事に候間、堅く無用たるべく候」
という禁止命令があったから、百姓は苗字を名乗ることはできなかった。
 しかし、寛永五年(一六二八)の御折村の名寄帳では、名主田中七兵衛と書いてあるし明暦二年(一六五六)の同村「開検地帳」の案内人は、田中長太郎・平野甚左衛門・高沢三右衛門・斎藤総右衛門の四人であった。この時代はまだ江戸初期だから、有力農民に対する苗字禁制はきびしくなかったのであろう。
 時代は下って、天保十三年(一八四二)三月の脚折村念仏講の「〓魔(えんま)法王并十王再建勧化帳」の名簿を見ると、世話人に斎藤仙松・田中長三郎・平野熊太郎・高沢新兵衛・他一一人と、寄進者に安野兵七・町田織右衛門・柳川忠左衛門・新井藤兵衛・成瀬紋右衛門・大野為八・他三七人、合せて五八名の全部が苗字をもっている。この名簿に洩れたのは浅野姓だけである。これは、念仏講という特殊な講中だから、若干のものは加入していなかったためであろう。
 農民は苗字をもたないのではなく、私称としてもっていても、公式に名乗ることができなかったのであった。
 明治三年九月に、平民も苗字をもつことを許され、翌四年三月の宗門人別帳には、苗字をつけた農民が名前を並べることができるようになった。これを見ると、農民も一段と人間の格式が上ったようにもみえる。これもひとえに、新政府の四民平等政策の恩恵に他ならぬ。江戸時代三百年に近い間、公然と名乗れぬまま、苗字を秘めて、名前だけで呼び捨てにされていた農民も、ここに初めて白昼堂々と、士族と同じく、苗字の上では平等の世界に浮び上ったわけである。正に一斉に花開くといった感じである。
 宗門人別帳は、この明治四年を最後として、翌五年からは、壬申戸籍に引き継がれてゆくのである。
     高弐拾六石九升八合
  一代々真言宗善能寺旦那
                         名主 田中佐平太
                             当未四拾三歳
                       同見習忰 同 萬次郎
                              未弐拾五歳
      武州比企郡泉井村 弘化二丁已年十二月嫁 妻   ひて
                              未四拾五歳
      武州入間郡大河原村 文政十丁亥年六月嫁 母   そめ
                              未六拾三歳
      武州高麗郡吉田村 明治元戊辰年十二月嫁 嫁   ゆき
                              未弐拾壱歳
                          忰   萬吉
                               未拾九歳
                          孫   勝太郎
                                未弐歳
                          下男  久蔵
                               未廿四歳
                          下女  くに
                                未廿歳
             〆七人内 男四人 女三人
           (以下略・明治四年三月の宗門人別帳より)
 尚、明治四年に脚折村の農家総戸数は六八戸であるが、同姓の戸数は次の通りである。
  高沢 20
  新井 10
  田中 10
  平野 8
  斎藤 7
  町田 3
  柳川 3
  浅野 2
  成瀬 2
  安野 2
  宮本 1
   計 68
高沢・新井・田中・平野・斎藤は五五戸で農家総戸数の八二パーセントを占めている。慶安元年(一六四八)の検地帳に、田中将監・高沢三右衛門・平野甚左衛門・斎藤孫右衛門・六右衛門の五人は、案内人として名を載せているから、村役人級の有力農民であろう。六右衛門は苗字が分らないが、多分、新井であろう。脚折村ではこの五つの苗字をもつ農家が多くは集団的に住居をもっている。このことは、かつては族縁共同体を形成していた名残りとも考えられる。