維新政府にとっては、統一的な国民支配のためには身分にかかわらず、国民一人ひとりの姓名・住所・年令・生死などが、確実に政府に掌握されていなければならなかった。そのために、明治四年四月五月、政府は「府県と藩」を含む初めての「全国惣体の戸籍法」を公布した。これにもとづき、翌五年から六年春にかけて編成されたのが壬申(じんしん)戸籍である。明治五年の干支(えと)が壬申(みずのえさる)だったので、この名がある。
この太政官布告には左の通り記されている。
今般、府藩県一般戸籍ノ法、別紙ノ通り改正仰セ出サレ候条、管内普(アマネ)ク布告致シ申スベキ事
戸数・人員を詳(つまび)らかにして、猥(みだ)りならざらしむるは、政務の最も先んじ、重んず所なり。夫(そ)れ全国人民の保護は大政の本務なること、素(もと)よりいうを待たず。然るに、その保護すべき人民を詳らかにせず、何を以て、その保護すべきことを施(ほどこ)すを得んや。これ政府、戸籍を詳らかにせざるべからざる儀なり。又、人民の各々安康(あんこう)を得てその生を遂げる所以(ゆえん)のものは、政府保護の庇蔭(ひいん)(おかげ)によらざるはなし。さればその籍を逃れ、その数に漏るるものは、その保護を受けざる理にて、自(おのずか)ら国民の外たるに近し。これ人民、戸籍を納めざるを得ざるの儀なり。中古以来、各方(くにくに)民治を異にせしより、僅かに東西を隔つれば、忽(たちま)ち情態を殊にし、聊(いささ)か遠近あれば即ち志行(こころざし・おこない)を同じゅうせず。随(したが)って、戸籍の法も終(つい)に錯雑(さくざつ)(いりまじる)の弊を免(まぬが)れず。或はこの籍を逃れ、或はかの籍を欺(あざむ)き、去就こころに任せ、往来規(のり)によらず、沿(ママ)襲(しきたり)の習、人々自ら度外(かまわぬこと)に附(ふ)するに至る。故に、今般、全国惣体の戸籍法を定めらるるを以て、普(あまね)く上下の通義(なすべきすじ)を弁(わきま)え、宣しく粗略のことなかるべし。
第一則
戸籍、旧習の錯雑(さくざつ)(いりまじる)ある所以(ゆえん)は、族属(ぞくぞく)(身分)を分つてこれを編製し、地に就(つい)てこれを収めざるを以て遺漏(おとしもれる)の事ありといえども、これを検査するの便を得ざるによれり。故にこの度編製の法、臣民一般(華族・士族・卒・祠官・僧侶・平民迄をいう。以下これに准ず)その住居の地に就てこれを収め、専ら遺(のこ)すなきを旨とす。故に各地方、土地の便宜(べんぎ)に随い、予(あらかじ)め区画を定め、毎区戸長ならびに副をおき、長ならびに副をして、その区内の戸数・人員・生死・出入等を詳らかにする事を掌(つかさど)らしむべし。
こうして編成された壬申戸籍では、華族・士族・平民の身分に関係なく、家を単位にして、その家には戸主を定め、その戸主が家を代表し、家に関する一切の責任と権限をもたされた。だから戸主は、自分を筆頭に、戸(家)内の総人員・姓名・年令・戸主との続柄・職業などを申告し、また、家族員のすべての変動を届けなければならなかった。
この際、現代人からみて異様に感じるのは、第二十則の末尾に「氏神の守札(まもりふだ)も其時検査すべし」との規定があることである。この規定の前提となるものは、前年の明治三年九月の氏子調(しらべ)の通達によるものである。
一華族より士族・卒・庶人に至るまで、その地の籍に編入これある者は、すべて其の産土(うぶすな)神社へ名簿を納め、神社の印章を受け、所持致すべき事。
一生児これあり候はば、貴賤に拘わらず、すべて産土神社へ小児を社参致させ、名簿を納め、産土神社の印証を受け申すべき事。
但し、社参の日限は各地の風習に従うべしといえども、凡(およ)そ五十日を越ゆべからず。
これが、明治四年四月の戸籍法によって確定し、同七月の大小神社氏子守札に関する太政官布告となって現れたのである。このことは、明治元年(慶応四年)三月二八日の神仏混淆廃止令、ひいては廃仏棄釈の激動の結末であり、国家による神道信仰の強制である。こうして、寛文(一六六一~七二)以来、長く続けられた幕府の仏教国教政策が完全に覆滅し、これに代って神道国教政策が樹立されることとなったのである。
しかしこの規則は明治六年六月に御沙汰あるまで施行に及ばずという布告によって取止めになった。