穢多・非人の称を廃止

522 ~ 524
前項まで列挙したように、服装・結婚・職業と、身分が分離されたが、この点では四民の差別は、制度上ではなくなったといえる。そればかりでなく、明治四年八月二八日の太政官布告によって、次のように賤民制が廃止されたことは、四民平等の大きな前進であった。
  穢多(えた)・非人(ひにん)等の称、廃せられ候条、自今(じこん)、身分・職業共、平民同様たるべき事。
 この布告によって、江戸時代三百年にも近く身分的差別に抑えつけられたえた・非人は法律上は解放されることになった。当時、政府の統計では、全国にえたは二八万人、非人二万三千余人、「雑種賤民」七万九千人、総計三八二八六六人の被差別者がいたというが、この人々は解放令をどんなに喜んだことであろうか。
 日本においては、既に弥生時代の後半には、生口(せいこう)と呼ばれる被差別民が存在したことが記録されている。古代にも賤民という法制上の身分が置かれたが、これは律令制度の解体とともに消滅した。中世に入ると、農業とあまり係わりのない被支配的身分の人々を中心に、差別的な扱いを受けるようになった。ただし、彼らは決して血筋として差別されていた訳ではなく、特定の地域に縛りつけられていたのでもなかった。従って中世末のいわゆる下剋上の変動期には、中下層身分の人々が逆に支配的地位を得ることもしばしばで、賤視されていた人々の多くがこの時期解放されていったといわれる。
 しかし、織豊政権を経て徳川幕府封建体制が樹立されると、民衆を分断して支配しようとする意図のもとに、これまでと違った身分制度が作り出された。士・農・工・商といわれるものである。農民は支配層にとって最も大切な年貢負担者であり、「生かさず殺さず」といった貧しい生活を強いられていたため、彼らを身分的に町民(工・商)の上に置くことでささやかな優越感をもたせ、その不満を柔らげさせるようにしたのである。更に町民の下に「えた・非人」とを二本の柱とする賤民身分が新たに作られた。彼らは、職業や身分、居住、通婚、はては社交に至るまで、その自由を公権力により全面的に制限された。
 賤民身分に落されたのは、下層の労役や生産の分野に関係していた人々、雑芸能者、下級宗教者、などのうちの一部であった。江戸の歌舞伎役者なども、はじめのうちは賤民に準ずる扱いを受けた。彼らはまた、治安維持のための労役を強要され、一揆鎮圧の先兵として利用されたので、差別感、違和感は一層かき立てられるようになった。
 こうして、支配される民衆の不平不満は、特権階級である武士に向けらる代りに民衆内部で反目し合うという仕組ができ上がった。そして、農・工・商はお互いに見下し合い、「えた・非人」その他の賤民身分の人々を差別し、これら最底辺の身分の人々同士もまた差別し合うという、恐るべき現実を生み出すこととなったのである。
 この解放令は、被差別身分の人たちにとって、まことに喜ばしい歴史の一駒(ひとこま)であった。しかし、喜んでばかりもしてはいられなかった。差別は依然つづいていたからである。四民のなかに華族・士族・平民の三級があり、新しく平民から上昇した官吏があった。華士族と官吏が新しい特権身分となり、人はすべて平等であるとの理念さえ打立てられなかった。しかも、被差別部落民は「新平民」の名がつけられ、一般民とはひそかに差別された。そして、職業の自由や、居住の自由は、部落民の大多数にとって、農業や商業に進出したり、あるいは近代的労働者となる自由ではなかった。その身分と結びついていた特定の手工業のうち、皮革業のような発展性のある事業は、部落以外の資本に独占されてゆく自由であった。
 明治四年に解放令が布告されてから、今日まで百一五年経過した。徳川封建社会のなかでいわれない差別を受けた人々は、まだ完全に差別から解放されていない。その完全な解放には、制度上の整備とともに「わが内なる差別」の解消が必須条件となっている今日、国民的課題とされているこの差別の解消に向けて、行政はもとより、関係者の自覚と努力がなお一層問われているところである。
  〔参考文献〕
  石井良助『明治文化史』法制編
  部落問題研究所『部落の歴史と解放運動』
  井上清『部落の歴史と解放理論』