宿駅制度については、道路輸送の上で、行政的・軍事的に重要な制度であったから、維新政府も引きつづいて強い統制のもとにおいていた。しかし、助郷制度は百姓泣かせの制度であったから、農民は一日も早くその撤廃を切望していた。「抑(そもそ)も、天下農民、生を定助郷各村に受くるほど、不幸なる人民は他にあらざるべし。されば、この各村の農民らは、皆速やかにその住む村を棄て、他国に移り去るべきに、去り能(あた)わざる所以(ゆえん)のものは他なし(中略)その父母の国を棄つるに忍びず、泣く泣くその日を送るといえども、ついに苦役(くえき)に堪えずして潰家(つぶれや)となり、その籍を亡ぼすに至る者多し」(諸井六郎『徳川時代の武蔵本庄』)というほど農村窮乏の原因となっていた。当村にとっても、二回にわたって助郷問題に巻きこまれたのであった。
明和元年(一七六四)から二年にかけての「伝馬(てんま)騒動」は、島原の乱以後の大騒動といわれ、増助郷の負担に堪えかねた、上州・武州の百姓二〇万人が決起した一揆であった。
また、文久三年(一八六三)中仙道桶川宿から当分助郷を申しつけられた、脚折村を始めとする比企・入間・高麗、三郡の村々は、桶川宿の宿役人から、「不勤の廉(かど)」すなわち、人馬を触れ当て通り出さないという件で、道中奉行に訴えられた。この訴訟は延々三五年もかかって、明治元年(一八六八)に新政府のもとへ済口(すみくち)証文を提出することで漸く決着した。
こうして、長年農村を苦しめてきた助郷制度も、新政府の手によって廃止される運命になった。その代りに、政府は私設の陸運会社の設立を許可して、輸送業務を委託することにした。それに伴って、助郷農村の犠牲の上に成り立っていた助郷制度も終りを告げたのであった。