5 御一新と旧物破壊

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 斎藤隆三氏の『近世世相史』の明治初年の項には、急激な世相の変化がシニカルな筆致で概略以下の通り書かれている。
 御一新という語は、一切の旧物を破壊し、一切のものを新たにし、旧慣旧習から離れて、新たなる国家社会を形成しようということであった。
 士人の帯刀は明治四年に廃され、断髪もそれに伴って、その頃から着々奨励せられた。明治五、六年の頃には、地方官中にはこれがために布告を発して、結髪の蛮風であることを説くものもあり、村里の正副戸長にて、その村内に断髪のものを多く出したとの故を以て、賞状を下附されたものもあった。明治二年には、東京府下において、結髪七分散髪三分といわれしものが、九年には散髪六分結髪四分となった。干渉・勧説の効果もあらんが、また自然の結果でもあろう。当時の俗謡には次のようなものがあった。
  ジャンギリ頭(あたま)を叩いてみれば文明開化の音がする
  チョンマゲ頭を叩いてみれば因循姑息(こそく)の音がする
 四時の恒例、折々の節物は、人生に密接なる関係を有するものであって、日常生活を律する重要な規矩(きく)(規則)であるが、特に江戸時代のように儀礼・形式を過重視した時代において、更にその意義の深いものがあった。それらもまた、ここに一新されて在来のものと全く異ったものが定められた。先ず、一日を子(ね)より亥(い)に至る一二支に、また昼夜を各々四ツ時(午前と午後の一〇時ごろ)より、九ツ(午前零時と午後零時)に至る六刻に分つた、旧来の制を改めて一二時とし、更に明治五年一一月からはまた、二四時とした。朔日(ついたち)と一五日と二八日とを御三日と称し、休暇日としたことも、これを改めて元年九月に、一六(いちろく)休暇の制を立て、毎月一日、六日、一一日、一六日、二一日、二六日を休暇日としたが、九年七月に至り、更に七曜制を採り、日曜日休暇と改めた。また五年には、建国以来の古俗であった太陰暦をさえ、一朝に廃して太陽暦を用ゆることとなし、五年一二月三日を改めて明治六年一月一日となし、これと共に五節句を廃し、紀元節・天長節・その他の新祝日・新祭日を設けた。いずれも破天荒の改新というべきである。
 こうした改新が、新政府の成立以来、それからそれと、次々に行われるので、国民は一時呆然(ぼうぜん)として(あっけにとられて)途方に暮るる有様ともなったのであるが、一代の大勢は滔々(とうとう)として(水が盛んに流れるように)、ただ一新の一途を進み、盂蘭盆(うらぼん)の祭りも、歳暮の儀も、あるいは歳の初めの松飾りや、廻礼をさえも、ただ旧弊(古くさい)と一語のもとに排斥し去って、諸事万事、簡素に無雑作(むぞうさ)ということを以て、新時代の要諦(ようたい)(大事な点)とはなしたのであった。