地租改正法

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そこで、政府は明治六年に地租改正に踏みきった。七月二八日の太政官布告は、次のように述べている。
  今般、地租改正ニツキ、旧来田畑貢納ノ法ハ悉皆(シツカイ)相廃シ、更ニ地券調査相済ミ次第、土地ノ代価ニ随(シタガ)イ、百分ノ三ヲ以テ地租ト相定ムベキ旨仰セ出サレ候条、別紙条例ノ通リ相心得ベク、且(カツ)、従前官庁並ビニ郡村入費等、地所ニ課シ取立テ候分ハ、総(スベ)テ地価ニテ賦課致スベク、尤(モツト)モ、ソノ金額ハ本税金ノ三分一ヨリ超過スヘカラス候。コノ旨布告候事。
 この改正法と共に、その具体的な手続きを定めた条例と規則が公布されたが、新法の要旨は大体次の四点である。
(1)旧地租は、土地の収穫を基準として賦課したが、改正法は、土地の価格によって賦課することにする。それで、石高・石盛・免など、旧法による課税標準は一切廃止する。それに代って、土地の代価によって課税する。
(2)従来、地租は五公五民、四公六民、三公七民等、各藩によってまちまちに課したが、新地租は、地価の百分の三と定める。年の豊凶によっても、一切増減は行なわない。
(3)従来は、田は米納、畑は金納あるいは石代納など、さまざまであったが、田畑を通じてすべて金納にする。
(4)納税者は、従来は土地占有者であったが、今後は、土地所有者が納税する。
 
 この百分の三という租率は、旧来の年貢徴収率「三公七民」の三に当り、旧来の歳入を、増加もしないが、低下もさせないことを建前とした数字である。これがために、大蔵省は、幾つかの地点で調査し、新旧税額を比較概算して、これが適正な税額であると論定したからである。このことは、幕府時代の重い貢租が、新地租に形を変えても実質はそのまま引継がれたことを意味するものである。
 地祖改正条例によると、当面は、地租を地価百分の三とするけれども、将来、茶・煙草・木材などの物品税法が発布されると、次第に地租を引下げ、最終的には一〇〇分の一にすると公約してあるが、しかしこれは空文に帰してしまった。実際には、明治一〇年一月に、二分五厘に減租されただけに止まった。