地租改正をめぐって、明治七年から一四年迄、連続して全国的に反対運動が起こった。その形態は、請願運動から一揆迄さまざまであったが、その運動の焦点になるものは、次の四種に分けられると思う。
(イ)地押丈量、地券名請、改租の費用、石代納をめぐるものが一〇件。
(ロ)地位等級、収穫地価決定に関して三七件。
(ハ)山林原野の官民有区分、改租に関して五件。
(ニ)改租による地主・小作関係をめぐって七件。
合せて五九件を数える。このうちで、地租改正の中心となるのは、「収穫地価」の決定である。地租が高額となるのは地価が高いからであり、地価が低下すれば、地租もまた安くてすむわけである。五九件のこの騒擾のうち、三七件と圧倒的に多いのも地租改正の核心を突いたものである。
この地価の決定方法については先述の通りであるが、当時、実務に当った有尾氏の説明によると、「実収穫とはちがい、仮定の収穫、すなわち、地位等級に応ずるものでありまして、村方から申し立てたものを、相当と思われる程度に訂正させて、これならばよろしいということを認めたもの」であった(有尾敬重『本邦地価の沿革』)。こういうわけで、収穫量は、見込収穫量を上から押しつけられたのであった。この押しつけ収穫量を基準として地価が決定されており、この見込みと実地の差が地価の高騰となり、ひいて高額地租の原因となった。高額地租の軽減は、先づ地価の低下より始めねばならぬ。農民たちは、見込収穫の廃棄、収穫の実地調査を要求して闘争をひき起した。
この闘争の激発したのは、明治九年から一〇年にかけてであった。最も有名なのは、和歌山・三重・茨城の一揆である。ここでは、関東の茨城で起こつた一揆を概説する。
茨城では、真壁・那珂両郡で明治九年に大規模な一揆が起こったが、一一月二七日、吉間村(現、明野町)に約三百名の農民が集まって、貢租の金納に伴う、米と金の交換比率に関する嘆願をしようとすることから始まった。それは、当局の威圧的な解散命令でおとなしく退散した。だが、三〇日には飯塚村(現、真壁村)に集まった農民は具体的な要求をまとめた。上納は正米で納めること、それが無理なら、米価の換算を九年の相場(一円につき三斗一升)より二升減じた二斗九升で計算してほしい、というのであった。そのうちに、農民の数はふくれ上って五百余名に達した。しかしこれは暴動化するに到らず、警官隊と下館藩の士族によって鎮圧された。
これが次に那珂郡へ飛び火して、一揆となったが、彼らは、明治九年の石代米価の急落にともなう負担激増に苦しんでいたのであった。農民救済の陳情書を県に提出したが、その内容は「農民は、維新政府に対して仁政を期待したが、新政府の政治は農民の期待を全く裏切るものである。」として、農民の立ちゆくような地租を要望した。しかし、この陳情は、「縦令(タトエ)、如何様建白スルモ、迚(トテ)モ採用相成り難シ」として、素気(そっけ)なく却下された。
このとき小祝村(現、大宮町)に結集した農民は約八百人ほどであつたが、彼らが暴動化したのは、立会いの警官が威圧的な態度に出たので、それに激昂して、ついに逃げる警官を追いかけて殺害してしまってからである。
それと同時に、近隣の村々に檄を飛ばした。その通達が面白い。「徳川御用」という書き出しで、今般、徳川の御用があるので、各村のものは、武器を持参のうえ集合するように、との触であった。新政府の地租改正に反対するために、徳川幕府の名のもとに、一揆参加を呼びかけているのであった。
この農民たちの一揆は、警官と旧水戸藩士の一隊が急襲すると、くもの子を散らすように敗走した。この一揆での犠牲者や処刑者は、死亡七名、死刑三名、懲役二四名、罰金一、〇六四名、計一、〇九八名に達した。参加村数は二郡三二か村に及んだ。
その後、政府は
竹槍でちょいと突き出す二分五厘
とうたわれたように、地租改正に対する反対運動が全国的に猛烈に湧き起こったので、明治一〇年一月、税率を百分の三から、百分の二・五に引き下げるとの詔書を出した。しかし、明治七年、改正の年から五か年間は、最初に定めた地価によって収税すると約束しながらも、明治一三年には、一八年まで据えおき収税することにした。