埼玉県下では、一一年三月にこの事業は完成した。しかし、県の示す見込収穫量と、農民が実地に調査した収穫量とが、あまりにもその差がはげしいので、民情おだやかでなかった。その時分、全国的にも地租改正反対で農民が騒擾をひき起しているし、脚折村でも、村役人が一〇年九月二八、九の両日、大久保村に出席して、等級引下げの集会を開くなどしていた。県は、この見込収穫量を農民に押しつけるために、慎重な手順をとった。先づ、県令自ら属僚を引連れて管内を巡回した。次には、村吏・地主惣代を県内各地に召集して、懇々とその理由を説得して、承諾を求めた。一一年五月一二日には説諭書を管下に配付して、丁寧に説明した。この巡回のためにも一か月を費したという。そういう手順ののちに、明治一一年一一月二九日に、新税施行伺を改正事務局総裁に呈出した。