その後、農業生産力の増大にともない、土地から総収穫物の価値に対する、地租の比率は減少し、明治二〇年頃には、その率は一〇パーセントぐらいになった。
地祖は明治年間を通じて、国税の中核をなしていたが、大正・昭和と進んで、その意義はいちじるしく低下した。第二次大戦以後は、地租という租税の種類もなくなり、市町村民税である固定資産財へ吸収されてしまった。その課税標準は、時価による土地価格(地価)である。図―5は、租税に対する地価の割合が、明治二五年に至るまで漸減する状態を示している。産業が成長するにつれ、地租の占める重要度は逓減してゆくわけである。
次に掲載する「地租軽減の情願書」は、明治四一年から四四年迄の間に、地租軽減同盟会の発起人が、時の大蔵大臣に請願したものである。発起人は県下各郡の代表者を網羅している。当時は、地租の国税総額に対する比率は低下していると思われるが、請願書に記すように、政府が「税制整理ヲ実行シ、地租ヲ軽減スルノ意アリ」と聞いて、「商工業者ハ全然、国費ノ負担ヲ免レ、農民独リコレヲ負担」する現状では、「地主ハ優ニ収入ノ大半ナイシ三分ノ二以上ヲ納付」しなければならない。そのため、「地租ハ重大ナル痛苦ヲ感ゼシメ、ソノ窮困ノ状態ハマコトニ憐レムベキモノアリ。」それで「農民ヲ窮地ノ中ヨリ救出セラレンコトヲ」請願したのである。
明治三九年、日露戦争後の政府の租税収入のうち、両大関といわれたのは地租と酒税であるが、地租は三六年から三九年にかけての三か年間に、八割余の増加を示して、八、四六三万円であり、租税中の王座を再び占めていた。これに対して、所得税・営業税は合せて五、六一一万円であった。
当時、農村は財源に苦しみ、寄附金・戸数割などの名目で、強制的に村費を割り当てていたが、その基準となるものは地租であつた。他方、発展著しい商工業者は「全然国費ノ負担ヲ免レ」るという状態で、不均衡な税体系であった。農民はいつまでも地租に苦しめられていた。
中央政界にあっても、限定された財源をめぐって桂内閣と政友会が対立していた。政府は日露戦争中の特別税を改定して、恒常的な税体系に再編しようとしたが、そのなかで地租軽減案が争点となっていた。政府案は田畑五厘を軽減する予定であったが、政友会は八厘案を固執した。政友会は自己の選挙基盤である地主・富農層の利益を守るために容易に妥協しなかった。時に、前年秋が豊作であったため、米価の低落傾向は顕著であったので、各地方の地主・富農層は、減税要求の請願を続々議会や政府に提出するという状況がその背後にあった。(大久保利謙『政治史』Ⅳ)
この請願書も、埼玉県の地主・富農層を代表して、このさい提出されたものであろう。
地租軽減ノ情願書(※註1)(地租輕減請願書)貴衆両院ヘ提出ノ分モ同文
謹テ書ヲ大藏大臣侯爵桂太郎閣下ニ呈シ敢テ地租ノ輕減ヲ乞フ
惟フニ我日本帝國ハ建國以來(※註2)農ヲ以テ本トセリ是ヲ以テ近ク明治維新ニ至ル迄數千年間國費ハ之ヲ地租ノ一途ニ取リ商工業者ハ全然國費ノ負擔ヲ免カレ農民獨リ之ヲ負擔セリ是レ我國ノ地租カ世界無比ノ苛重ヲ致セル原由ナリ是ヲ以テ我叡聖(エイセイ)仁慈ナル
天皇陛下ハ明治六年特ニ詔勅ヲ發セラレ賦ニ厚薄ノ弊ナク民ニ勞逸ノ偏ナカラシメヨト宣ヘ(イ)シノミナラス更ニ尚有司ニ命シテ地租ハ漸次減シテ遂ニ百分ノ一ニ爲スヘシト約セシム、皇恩ノ優渥(ユウアク)ナル、吾人臣民日夜感泣シテ措(オ)ク能ハサル所ナリ然ルニ今ヤ却テ地租ハ漸次加増シテ二倍以上ノ巨額ニ上ル是レ我 陛下ノ聖旨ナランヤ盖(ケダ)シ地租ノ性質生存ノ根本ニ課税スルモノナレハ之ヲ増徴スル時ハ、生産力ノ發逹ヲ阻害シ、國力ノ疲弊ヲ招クハ到底免(マヌ)カレサル所ニシテ商工亦其影響ヲ被(コウ)ムルヘキハ必至ノ勢ナリトス、然ルニモ拘(カカワ)ラス地租ノ税率ハ屡次(ルジ)増加セラレ特ニ近時地方財政ノ膨脹甚シク、地租ノ國定税率以外地方税特別税トシテ賦課セラル、金額ハ殆ント地租ト同額ニ上ルノミナラス、教育ニ衛生ニ土木ニ費用ヲ要スルモノ、多々益々増加シ今ヤ農村ハ其財源ナキニ苦ミ名ヲ寄附金戸別割等ニ假(カ)リ悉(コトゴト)ク地租額ヲ標準トシテ強制的ニ之ヲ賦課徴收スルカ故ニ其名ハ寄附金戸別割ナルモ其實ハ即チ純然タル地租割ナリ、是等ノ費用ヲ綜合スレハ地主ハ優ニ收入ノ大半乃至三分ノ二以上ヲ納付セサルヘカラサルノ事實ニシテ、餘裕幾許(イクバク)モアルナシ、況ヤ穀價低落ノ今日ニ於テヲヤ、地租ハ實ニ甚大ナル痛苦ヲ農民ニ感セシメ、其窮困ノ状態ハ誠ニ憐ムヘキモノアリ、嗚呼農ヤ春ハ風塵ヲ遁ルヲ得ス、夏ハ暑熱ヲ避クルヲ得ス秋ハ陰雨ヲ避クルヲ得ス冬ハ寒凍ヲ避クルヲ得ス、手足腓胝(ヘイテイ)(※註3)、四時ノ間休息スルノ日ナク、又私ニ往ヲ送リ來ヲ迎ヘ、死ヲ吊シ疾ヲ問ヘ(イ)、老ヲ養ヒ幼ヲ育スル、亦其中ニ在リ粒々勤苦(※註4)此ノ如シ尚時ニ水旱ノ災ヲ被(コウ)ムル於是乎(ココニオイテカ)田宅ヲ賣リ、子孫ヲ鬻(ヒサ)キテ債ヲ償フニ至ル、人間ノ慘苦何者カ之レニ比スヘキモノアランヤ此状況ニシテ永ク持續セハ國力ノ衰耗ヲ招クハ識者ヲ待テ而シテ後ニ知ラルヽナリ然レトモ國運ノ進歩ニ伴ヒ國費亦漸ク多キヲ加フルハ勢ノ免カレサル所ナレハ之ヲ軽減スルノ餘地ナキニ於テハ苛重ノ負擔亦巳(ヤム)ヲ得スト雖トモ苟(イヤシク)モ之ヲ輕減シ得ヘキ機會アラハ一日モ躊躇(チユウチヨ)スルヲ容(ユル)サヽル所ナリ、聞クカ如クンハ今ヤ幸ニ政府ハ税制整理ヲ實行シ租税ヲ輕減スルノ意アリト、果シテ然ラハ租税中第一着ニ軽減スヘキハ最モ苛重ナル地租タルヘキハ多言ヲ要セサル所ナリト信ス况(イワン)ヤ曩(サ)キニ政府ノ公約シタル所ヨリ之ヲ論スレハ之ヲ軽滅スルハ恰(アタカ)モ債務ヲ果タスト一般ナル理由アルニ於テヲヤ今若シ幾分ナリトモ地租ヲ經減シ民力ヲ休養スルコトヲ得セシメハ自然一般社會ノ振興ヲ來タスノミナラス國家萬一ノ事變ニ遭遇スルモ復(マタ)能ク之レニ應スルヲ得ヘシ仰キ願クハ至誠國ヲ愛シ、赤心民ヲ思フノ閣下幸ニ辭ヲ以テ意ヲ捨テス前陳ノ事實ヲ裁察シ偏重苛斂(カレン)ナル地租ノ幾分ヲ軽減シ上ハ以テ 聖慮ノ萬一ニ答(エ)ヒ奉リ下ハ以テ農民ヲ窮地ノ中ヨリ救出セラレンコトヲ、恐懼謹言
地租軽減期成同盟会発起人氏名
北足立郡
蕨町 岡田健次郎 大門村 駒崎幸右衛門 尾間木村 鈴木順太郎 小谷村 長島律太郎
入間郡
東吾野村 小林捨三 福岡村 星野仙蔵 鶴ケ島村 田中万次郎 古谷村 新井定次郎 富岡村 田中泰司
比企郡
大河村 横川宗作 北吉見村 岡安五郎 中山村 鈴木浩一
秩父郡
白鳥村 大沢寅次郎 原谷村 町田嘉之助
児玉郡
七本木村 戸谷治平 仁手村 茂木小平 賀美村 須賀丈太郎 本庄町 小林浜次郎
大里郡
奈良村 石坂金一郎 御正村 長谷川宗治 榛沢村 武政恭一郎 吉見村 根岸伴七 八基村 渋沢市郎
北埼玉郡
中条村 中村孫兵衛 太田村 田島竹之助 豊野村 田村庄太郎 川俣村 掘越寛介 志多見村 酒巻啓之助
南埼玉郡
久喜町 榎本善兵衛 出羽村 中村悦蔵 粕壁町 田村新蔵 川柳村 藤波伝左衛門
北葛飾郡
幸松村 田中源太郎 石井宗四郎 桜井村 関口武次郎
〔註〕
(1) この情願書の年月は不詳であるが、明治四一年七月から、四四年迄の第二次桂内閣のときであろう。この情願書はカッコして請願書と書いてあるから、熱情こめて請願するという意味にとるべきであろう。
(2) 第二次桂内閣では、総理大臣桂太郎が大蔵大臣を兼ねていた。
(3) 胼(ヘイ)はヒビ、胝(テイ)はアカギレ。手足胼胝は、手足にヒビ・アカギレが切れるほど働くこと。
(4) 米を作る農民の苦しみがひととおりでないこと。〝粒々〟は米のひとつぶずつ、すなわち、全部の米粒のこと。
なお、昭和元年の地租の税収入上の比率を示すと次の通りである。
表5-8 税収比率 |
% | |
所得税 | 23.6 |
地租 | 7.7 |
営業税 | 7.0 |
営業収益税 | 0.0 |
資本利子税 | 1.4 |
相続税 | 2.1 |
通行税 | 0.2 |
鉱業税 | 0.6 |
兌換券発行税 | 0.4 |
酒税 | 24.4 |
醤油税 | 0.1 |
清涼飲料税 | 0.3 |
砂糖消費税 | 9.3 |
織物消費税 | 4.0 |
取引所税 | 1.7 |
関税 | 17.0 |
噸税 | 0.2 |