2 明治初期脚折村の階層構成(表―9)

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表5―10の統計に見るように、脚折村農民の土地所有状況は、文化・文政頃から六〇年たった明治初年には大きな変化を示している。幕末・維新の激動期は、この村の階層構成にも影響を与えずにはおかなかったのである。
表5-10 脚折村階層表
2町以上2町~1町1町~5反5反~1反1反~0屋敷持無屋敷
明治初期12人23人10人20人12人77人51人26人
(16%)(30%)(13%)(26%)(16%)(66%)(34%)
35人(46%)42人(54%)
文化八年~文政四年10人17人21人29人9人86人79人8人
(12%)(20%)(24%)(34%)(10%)(91%)(9%)
27人(32%)59人(68%)
(明治初期としたのは、明治三年の名寄帳、内見帳と明治五年の名寄帳の総合によるからである)

 その変化の激しいのは、農家数が八六人から七七人へと減少していることである。その減少は所有地一町未満から一反の層に著しく、五〇人が三〇人に激減している。しかし、水呑層といわれる一反以下は九人から一二人へと増加している。
 これに反して、一町以上は二七人から三五人へと八人の増加である。これを見ると、一町未満の没落した農民の耕地は、一町以上の富裕層に吸収されたといわなければならない。中間層ともいえる一町未満~五反以上の農民は、二一人から半数に足りない一〇人へと減少しているが、この減少した一一人のうち八人は、上昇して一町以上の層に加わり、残り三人は没落したものであろう。これは両極分解といわれる現象である。
 この両極分解によって、村民は富農層と貧農層に分離し、中間層は極端に少数となっている。だが、脚折村の場合には、富農層といっても、大地主といわれるほどの耕地を所有しているわけではなく、また、貧農層も零細耕地を依然手放したわけではないので、彼らは小作兼自作農として生活をたてるか、或は養蚕を中心とした商業的農業を営むことによって辛うじて再生産を維持したことであろう。ただ、耕地を喪失した九人の貧農は半プロ層に没落して離村したことと考えられる。
 富農層にも多少の変動はみられる。次に文化・文政頃と、明治初年の持高について、一位から七位までを比較すると表5-11のようである。
表5-11 明治初年と文化・文政頃の持高比較
明治初年
順位氏名先代田畑屋敷合
畝 歩
1田中佐平太万右衛門四七一・〇三
2町田浅次郎織右衛門三五八・一八
3柳川清二郎忠左衛門二九四・〇九
4平野伝十郎作兵衛二八四・〇三
助右衛門
5高沢文助仁右衛門二七一・二五
友左衛門
6善能寺二六五・二八
7斎藤次郎吉次郎右衛門二六一・一二
文化・文政頃
順位氏名子孫田畑屋敷合
畝 歩
1仁右衛門高沢文助四一六・一六
2万右衛門田中佐平大三五六・一七
3作兵衛平野伝十郎三五五・〇一
4五左衛門三四六・二六
5織右衛門町田浅次郎三〇八・二九
6善八(田中)二六四・〇三
7久八二五八・〇九
9次郎右衛門斎藤次郎吉二一四・〇七
12善能寺一八二・一八
15忠左衛門柳川清二郎一五一・二三

 このような農民層分解について、楫西光速氏は次のように述べている。「地方により、村によってそれぞれ著しい相違をみせながら、一般的には、極めて不徹底に終り、ゆがめられた形で行われたのであった。すなわち、土地収奪を徹底的に突き進めて、無高(水呑)の層を広汎につくり出す方向に行われたのではなく、五石あるいは五反未満の極めて零細な土地を残して、それを小作に組みこんでいくといった形で進展していった。地主・小作関係の展開、寄生地主制の成立は、かくして、農民層分解の自然的な結果であった。」(『日本経済史』)
 楫西氏が指摘されるように、脚折村農民についても、幕末から明治初年にかけて、少くとも関東農村で一般的にみられる両極分解が行われ、その結果、地主・小作関係が展開し、寄生地主制が成立したわけである。