3 おびただしい入作百姓

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 他村の農民で、脚折村の田畑を所有し耕作する入作百姓は四三名の多数に達している。この数は全耕作者一二〇名の三六パーセントにあたる。また、耕地面積については、水田が三町五反二八歩、畑が六町三反七畝二歩で、合計九町八反八畝である。それは、脚折村全耕地面の一割に近く、九パーセントであり、耕地別では水田の一八パーセント、畑の九パーセントを占める。
入百姓(村外居住者)
No.田畑合
町 反 畝 歩町 反 畝 歩町 反 畝 歩
11.0.4.071.0.4.07
21.0.235.5.096.6.02
36.5.026.5.02
45.6.137.146.3.27
53.0.003.3.106.3.10
64.6.184.6.18
74.4.214.4.21
84.2.244.2.24
93.9.163.9.16
103.3.193.3.19
113.3.073.3.07
123.2.003.2.00
133.0.143.0.14
142.8.172.8.17
152.8.002.8.00
162.0.223.002.3.22
178.001.2.232.0.23
181.9.071.9.07
191.8.101.8.10
201.6.001.6.00
211.5.121.5.12
221.4.091.4.09
231.4.021.4.02
241.3.111.3.11
251.2.271.2.27
261.2.261.2.26
271.1.051.1.05
281.0.191.0.19
291.0.061.0.06
307.102.129.22
317.277.27
325.135.13
335.005.00
344.284.28
354.204.20
363.003.00
373.003.00
382.182.18
392.172.17
401.241.24
411.081.08
421.001.00
43(不明)
3.5.0.286.3.7.029.8.8.00
参考資料 「当午方立毛内見帳」(明治3)
     「畑反別名寄帳」(明治5)
     「武蔵国高麗郡脚折村反別小前名寄帳」(明治3)
     「未宗門人別帳」(明治4)

 入作百姓を居村別に分けると次の通りである。
(1)脚折新田(五)・脚折下新田(一)
(2)高倉村(九)・中新田村(一)・関間新田(五)・高倉新田(四)・下新田村(五)
(3)厚川村(一)・上浅羽村(二)・下浅羽村(一)・中里村(三)
(4)坂戸村(五)・不明(一)
                   〔( )内は人数を示す〕
 これだけ多数の入作百姓が脚折村の耕地を獲得した原因は何であろうか。このことについては、二つの側面から考えねばならない。
 第一は、脚折村が水田地帯と畑作地帯に隣接し、双方から挟み撃ちにあっているからである。水田地帯では畑の獲得に余念なく、畑作地帯では逆に猫額大の水田でも渇望の的である。
 (1)(2)のグループは、高倉村を除いて、純畑作地帯であり、これに反して(3)のグループは、広大な水田が広がって、畑の乏しい地帯である。
 第二は、いうまでもなく農民の窮乏である。幕末から明治初年にかけての激動期に農民の生活にも大きな変化をもたらし、両極分解という階層構成が成立したことはすでに述べたが、転落する農民は、耕地を手放すか(明治四年以後)、或は、耕地を質入れして再生産費を補填(ほてん)したのであった。しかし、一度質入れした田畑は、一〇か年の期限を過ぎても、受戻すだけの資力はなく、結局は、流地となって金主に引渡されるのが、当時の常態であった。
 この際注目すべきは、(4)坂戸の在方商人五人の手に脚折村耕地が渡っていることである。農業を営まない商人の手に、どんな経路で農地が渡ったのであろうか。その件については、伊藤好一氏の研究に待つことにしよう。
 武蔵野地方の在方商人の成長は、肥料の販売と、穀類の買取りでなしとげられた。という結論を踏まえて、その経路は次のようである。当時この地方で一般に使われていた肥料は「下り糠」と称する摂津辺のもの、「尾州糠」と称する尾張から送られてくるものと、それに南関東一円から入る「地廻り糠」であった。これらの糠を農民が入手するには、江戸の糠問屋・下り糠問屋・地糠問屋等から、仲買の手を通じて買入れた。買入れる方法としては、秋の麦蒔時期になると、仲買から糠を前借りしておき、出来秋になって収穫物で返納するという方法がとられた。
 「近村、身元よろしき商人」は、糠の安い春の頃から買い込んでおき、「諸作盛農」の秋になって、糠の需要が増えてくると、高い値段で売り出すのである。しかしその頃になると、糠は糠商人達に買占められて、糠商人以外から入手する方法はなかった。必要に迫られた農民達はやむなく、糠商人の言いなりほうだいになって、高い値段の糠を買うはめに追いこまれるのであった。糠を購入する現金を持合わせていない農民は致し方なく、高値高利でも「頓着(とんちやく)」せず、「借用をもって耕作」した。だが糠を前借りする農民は、返済のことを考えると、経営する耕地全部に要する程の糠を借りることはできなかった。
 しかし、どのように「出精」しても、肥料代を差引けば、穀物払いの代金は手取り分が皆無のありさまで、まことに「貸付候者之勝手のミに相成候」というのが実情であった。このように、中間商人の買占め・売惜しみによって肥料代がかさみ、農業経営がうまく行かない、というのは、当時の武蔵野地方の農民が共通して、抱いていた悩みであったのではなかろうか。(「江戸地廻り経済の展開」)
 当村でも畑作の肥料は、糠・灰・下肥(しもごえ)・馬屋肥が用いられた(「村鏡明細書上帳」)。糠の仕入には、前貸りして出来秋になって収獲物で返済する方法が当地でもとられたであろう。しかし、糠を前借りした農民が、収穫物だけでは返済できない場合には、よんどころなく、最も安易な方法、すなわち、自分の耕地を質入れして、返済金にあてるほかはなかったのであろう。かくて質地は質流れとなり、坂戸の地場商人に吸収されることになったのである。