郡区町村編成法

549 ~ 550
明治四年、政府は戸籍法を出し、戸籍事務を遂行するために新しく区を設定した。そして、戸籍吏として戸長、副戸長をおくことを定めた。さらに、翌五年には、数か村規模で小区を、数小区を合わせて大区をおき、大区に区長、小区には戸長をおく法令を出した。これが大区小区制とよばれる地方制度である。ところが、これはうまく運営できなかった。同一区内でも町村の慣習は必ずしも同じではなく、住民の対立感情もあった。そのため、政府は明治一一年、「郡区町村編成法」を公布して、区制を廃止し在来の郡の範囲を行政区域として復活した。それとともに、従来の町村は行政単位としての性質を全く失い、単なる部落にすぎないものとなっていたのを、再び基礎的な行政単位として復活した。古い歴史と伝統をおび、現実の社会的・経済的生活関係で、きっちりと堅く結束されていた村落共同体を無視することはできなかったからである。政府は、この法令発布にあたって、次のように、その制定理由を明らかにした。
  区ヲ置キ、区戸長ヲ置ク。制置宜シキヲ得ザルノミナラズ、数百年慣習ノ郡制ヲ破リ、新規ニ奇異ノ区画ヲ設ケタルヲ以テ、頗(スコブ)ル人心ニ適セズ、又、便宜ヲ欠キ、人間絶エテ利益ナキノミナラズ、只(タダ)弊害アルノミ……抑(ソモソモ)、地方ノ区画ノ如キハ、如何ナル美法良制モ、固有ノ習慣ニヨラズシテ、新規ノ事ヲ起コストキハ、其ノ形美ナルモ、其ノ実益ナシ。寧(ムシ)ロ多少完全ナラザルモ、固有ノ習慣ニ依ルニ若(シ)カズ。……今概シテ欧米ノ制ニ倣(ナラ)フトキハ、其ノ形美ナルモ、其ノ実適セズ。宜シク我古来ノ慣習ト、方今人智ノ程度トヲ斟酌(シンシヤク)シテ、適実ノ制ヲ設クベキナリ(「地方体制三大新法理由書」)
 明治五、六年から明治中期までは盲目的な西洋文化追随の時代であった。上下ただ陶然として西洋の文明に酔い、これが追随に盲走したのであった(斎藤隆三『近世世相史概観』)。この速成的な西欧化は、その反面伝統的なもの、民俗的なものを軽視する側面をもっていた。大区小区制はこのような時代を背景に生れた制度であったが、為政者は民族の伝統文化に結びつかなければ、新しい制度への転換の不可能なことを体験したのであった。
  自治心ノ発動ハ、即チ愛国心ノ因(ヨツ)テ起コル所ナリ。人民苟(イヤシ)クモ自治愛国ノ心志ナケレバ、日々ニ依頼ノ心ヲ増シ、其ノ弊ヤ、年貢サエ寛ナラバ、英国ニ支那ニ臣従ヲ顧ミザルニ至ルベシ。是豈(コレア)ニ国家ノ大患ナラズヤ。故ニ、町村ノ事務ヲ人民ノ自治ニ任スルノ緊急ナルハ如此(カクノゴトシ)」
 この「郡区町村編成法」及び同時に制定された「府県会規則」「地方税規則」とを合わせ、特に三新法と呼んでいる。