埼玉県会の成立

553 ~ 554
明治一一年(一八七八)七月、「郡区町村編成法」「地方税規則」とならんで三新法と称された「府県会規則」が制定公布された。これに基づき、明治一二年五月、各郡の定員を定め、総員四〇名で出発した。郡の大小により各郡五名以下を記名投票によって公選した。入間・高麗郡は五名であった。被選挙権者は、二五才以上の男子で、地租一〇円以上の納入者である。現に他府県に寄留していても、かつて本県内に満三年以上居住した者は差支えない。選挙有権者は満二〇才以上の男子で、本籍をその地にもち、地租五円以上の納入者である。
 地租一〇円以上の納税者といえば、ほぼ一町五反位の所有者であり、「十円以上ヲ納ムルハ、上等ノ身代ニテ、一村ニツキ少キハ六、七分ノ一、多キモ四分ノ一ニ当ルベシ」(山口県令発言)といわれていた。
 議員は名誉職(無給で、旅費と滞在費だけを支給される)で、任期は四年、二年ごとに半数改選された。「恒産無キノ人ハ、亦恒心アルコト難シ。其世安ヲ図(ハカ)リ、公益ヲ務(ツト)ムル者、往々、資力アルノ人ニ於テコレヲ得」というのが、当時の政府の考え方であった。この考え方は必然的に、借家人・小作人・貧窮士族・小商人を県政から締め出すことであった。
 第三期(自 明治一五年四月)入間・高麗郡選出の県会議員の氏名・財産は表―15の通りである。
表5-15 入間・高麗郡選出県会議員氏名財産表
所有財産居住地族業姓名誕生
地所地価家屋
町   歩円   厘坪  勺
三〇・二〇一一一一、四八八・三七九一〇七・〇〇入間郡豊田新田九番地平民福田久松嘉永元・一二・二五
一七・一二二八一、九六八・五一七一〇九・〇〇同 郡今福村四一番地山口正興嘉永三・一〇・二一
一〇・八一二一四、二五七・〇八八八六・〇〇同 郡東大久保村一六番地大沢禎三弘化三・一一・七
一八・六四〇五一、二七一・四九八一一二・二〇高麗郡脚折村五〇番地田中万次郎弘化四・一〇・二〇
一〇〇・一七二八二六、一七六・四八八四五〇・二五高麗郡柏原村六三番地増田忠順嘉永二・二・七
尚、戦前の鶴ケ島村出身の県会議員としては、田中万次郎の他に、金子助五郎、新井九十郎がいた。