明治一七年には、町村行政上で重大な改革が行われた。それは、明治一一年に郡区町村編制法が施行された際に、町村をあまりにも自主的なものにしたことが、かえって政府の中央集権統治に支障を来すようになったからである。それで再びこれを統制強化するために、戸長の官選制度、戸長役場管轄区域の拡大を図ることになったのである。
この戸長官選政策は、戸長がもつ国家機関としての機能を維持するため、
府知事・県令―郡長―戸長
のルートを強化することが目的であった。明治一五年に、戸長の身分取扱いが改正され、准一〇等から一七等までと、地位向上がはかられたことは、戸長を「治民上、其ノ地位ヲ重カラシメ」て、官僚の一員としての取扱いをするためであり、一七年改正はその延長の上にあるものであった。しかし、自由民権運動の激化と、デフレの進行による不穏な世情は、このような対応では抑えきれなかった。このような政治的危機に対処するために、全国的に戸長官選制にしたのであった。しかし、官選といっても、「純然タル官選トナスハ、従来ノ慣行ニ背馳(ハイチ)シ、得策ニアラズ」という趣旨から、「戸長ハ府知事・県令コレヲ選任ス。但シ、町村人民ヲシテ三人乃至五人ヲ選挙セシメ、府知事・県令、其ノ中ニツイテ選任スル事ヲ得ベシ」(太政官達)という原則を命じられた。この町村人民による戸長候補者の選挙とは、人民の直接選挙のことでなく、「毎町村ヨリ同数ノ選挙委員ヲ出サシメ、其ノ選挙委員ヲシテコレヲ投票セシムベシ」という間接選挙であった。町村の有力者だけに戸長選出権を与えたのであった。
戸長としての資格をもつ者は、「戸長ハナルベク永ク其ノ町村ニ居住シ、名望・資産ヲ有スル者ニ就テ選任スベシ」(「戸長選任ノ心得」)と訓示されているから、政府は地方の名望家を国の支配の末端に採用して、地域社会にもつ信頼感と権威を統治に利用しようとしたのである。
当時は、自由民権運動が絶頂に達し、自由党も合法派と急進派が分裂した時代であるし、農村は不況のどん底にあって、民心不穏の状況であった。この一七年の改正は、上層の名望家を選んで、栄誉と地位を与えて、この時局を収拾しようとしたものであった。
この時代には、官尊民卑の風潮が強く、官職に就くことは大へんな名誉であった。「県令を見ること大々名の如く、郡長を見ること、大名の如く、県会議員を勤めたる富豪・名望家も薄給にあまんじて郡役所吏員たることさえ名誉と」した時代であったから、この准官吏としての戸長に選任されることは、地方名望家にとっては、欣然就任するだけの価値ある役職であった。