この改正によって、「町村聯合ハ、凡ソ五百戸、五町村ヲ目途トス」(明治一七年五月二四日、各郡長への内達)という内達によって、各町村に一つおかれていた戸長役場は廃止せられ、平均五か村を連合した地域を行政単位とした。それまでは、県下の町村では、三戸か五戸ぐらいしかない村もあり、三~四〇戸のものも多く、面積も狭かった。また人口も大は五千人以上、小は五人前後というように極端な開きがあった。平均五百人程度であった。そのため、戸長の給料も至って薄給であった。区域を広げ、財政能力を高めることによって、戸長の給与を高めることができる。そうして有能な戸長を登用しやすい条件を作ろうとしたのである。また、この町村の規模拡大は、国家が要求する国政事務の負担を果たしうるだけの一定水準以上の財政力をもった行政単位を作り出すことでもあった。
しかし、町村の連合は行われても、各町村が独立することは保証せられていた。「一町村ニ一戸長ヲオクヲ廃シテ、五、六町村ニ戸長ヲオクモ、天然ノ部落ハ素(モト)ヨリコレヲ破壊スルニアラズ」と政府委員は述べている。
この趣旨をよくあらわしているのが、連合町村会の議員の選出方法であり、戸長の選出方法であった。連合町村会議員は各町村が同数の定員の選出であり、戸長の選出も毎町村が同数の選挙委員を選出し、その選挙委員によって選ばれた。町村の人口や面積による差別はなかった。
戸長役場の管轄区域は、単一の行政体ではなく、数個の町村の連合体としての性格をもっていた。そして、その行政組織も、町村をその下に踏まえて構成されており、町村には町村総代人がおかれ、行政の下部滲透に不便なからしめた。こうして
府県―郡―戸長―惣代
という、複雑な四重構造をもつ行政組織となった。