上広谷連合戸長役場

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埼玉県では、明治一七年七月一四日に、連合戸長役場の位置と、所轄の各町村について、県令からの布達があった。その名称についても、役場所在の町村名を用いるよう布達された。
  数町村聯合ノ戸長役場ハ、其ノ役場位置ノ町村名ヲ用イ、某(ボウ)聯合戸長役場ト相称シ候条、此ノ旨布達候事。
      埼玉県令吉田清英代理
        埼玉県少書記官 笹田黙介
 この布達に基づいて、上広谷連合戸長役場が設置された。その区域は表―16の通りである。この連合村は、上広谷と名づけられ、左表にもある通り、上広谷村に○印がつけられているが、実際には脚折村に連合戸長役場が設置された。これは、県の内達で「戸長役場ヘ成ルベク中央ニ位スル町村トス」というのに、違反したからであろう。しかし、最初から上広谷村が連合村の東端に位置することは周知なのに、何故、上広谷村を予定したかについては不明である。このことについて、上広谷村へ予定の通り、連合戸長役場設置の請願書が提出されている。
表5-16 上広谷連合村名
連合町村名
○印ハ戸長役場位置
戸数人口連合部内東西南北ノ里程
○上広谷村三九一九五東西一里十八丁 南北二十二丁
 太田ケ谷村七六三八九
 三ツ木村四九二三七
 三ツ木新田
 藤金村五一二五二
 五味ケ谷村四五二一二
 戸宮村三七一九一
 大塚野新田五三
 脚折村八三四五一
 高倉村六二三四四
 町屋村一六九四
 上神田村四一二〇一
 中新田村二六一四六
 下新田村三〇一六八
五六五二、九四〇
理由不詳
(『埼玉県市町村合併史』)

  (前欠)義ハ、上広谷村ヘ設立相成リ候義ニ付、村民共挙(アゲ)テ随喜ヲ顕ワシ罷(マカ)リ在リ候処、豈(アニ)図ランヤ、突然、聯合部内脚折村ヘ設置ノ趣キ申シ聞カサレ候エ共、已(スデ)ニ御本県御達(タツシ)戸長役場位置及ビ所轄町村ノ区域ニ於ケルモ、当村ヲ以テ首頂ニ定メサセラレ、此地ニ就キ役場ノ位置ニ異動コレアル義ハ、何等ノ御達振モ未ダ拝承仕ラズ。然ル処、今回、戸長山川岩雄殿ヨリ各村旧戸長ヘ対シ、本月三十日ニ右脚折村ニ於テ事務施行候ニ付、一切書類ハ同村ヘ引継グベキ趣、申シ渡サルニ就テハ、果シテ其ノ役場モ同村ヘ設置セラルル義ト一時疑問ヲ生ジ、右四ケ村ノ人民、夙(シユク)夜寧(ヤス)カラズ、憂慮罷リ在リ候エドモ、併(シカ)シナガラ、自分等ノ思考スル処ハ、断然御布達モコレアリ、且(カツ)又、部一般ノ公議ニ帰シテ転遷セシモノニコレナク候間、一箇事務上ノ都合ニモ寄リ候トハ予想罷リ在リ候エドモ、追々波動ヲ起コシ、面々家務ヲ措(オ)イテ協議ヲ起コシ、傍観ニ堪エガタキヨリ、篤(トク)ト事情汲察候処、只管(ヒタスラ)役場ノ移転アルノ一点ニ焦慮罷リ在リ候義ニ付、尚モ直チニ影響セバ、随ツテ公務ニ関係ナキヲ保シ難クト予念仕リ候間、此段厚ク御洞察成シ下サレ、御布達ノ通リ戸長役場ノ義ハ、上広谷村ヘ御設置相成リ度、然ル上ハ居民一同安神(心)仕リ、且又、外村々ニ於ケルモ、原(ママ)令ニ拠テノ義ニ候エバ、聊(イササカ)、障碍コレナキ義ト思惟仕リ候。然ル間、此段懇願シ奉リ候也。
 〔備考〕
(1) 提出者は不明だが、所蔵者は、五味ケ谷松本一男氏である。
(2) 戸長山川岩雄は脚折村戸長である。
    委任状
  今般町村聯合ニ付、戸長役場ノ位置トモ併セテ御布達コレアリ候処、本村聯合部内臑折村ヘ右役場移転ノ兆候コレアリ候ニ付テハ、御布達ニ矛盾候ニ付、自分共一同、其ノ筋ヘ対シ恐レアルヲ以テ、貴殿等ヲ以テ代人ト定メ、左ノ権限ノ事ヲ代理致サセ候事。
   本郡上広谷村ヘ戸長役場ヲ開設スルノ請願、本貫郡衙ヲ経由シ、本県マデ出願ノ事
  右委任状件(クダン)ノ如シ。
   明治十七年八月何日 高麗郡 何村
             同郡  ――
             同郡  ――
     同郡何村
      ―― 殿
      ―― 殿
      ―― 殿
 このように上広谷村は連合戸長役場の設置を請願したのだが、結局は、脚折村へ仮役所を設置することに決定した。その経緯は、
    仮役場設置ノ義ニ付具状
  当聯合役場位置ノ義ハ、本年本県甲第四十三号布達ニヨリ、上広谷村ニ設置スベキハ勿論ニ候処、同村ノ義ハ、聯合村々ノ東北隅ニシテ、部内頗(スコ)ブル不便ナルノミナラズ、役場ニ仮用スベキ適当ノ家屋コレナク、就テハ、脚折村ハ部内ノ中央ニシテ、役場ニ相当ノ建家コレアリ候ニ付、当分ノ内、仮リニ同村ヘ設置、事務取扱イ度、特別ノ御詮議ヲ以テ、御許可相成リ度ノ此ノ為メ具状候也。
            埼玉県高麗郡上広谷聯合戸長
   明治十七年八月二一日       山川岩雄印
   埼玉県令吉田清英殿    (県行政文書)
 これを受けて、入間・高麗郡長は、自分の非を認め、脚折村へ役場設置の許可を県令に上申している。
    仮役場設置ノ儀ニ付上申
  部内高麗郡上広谷村聯合戸長ヨリ、役場位置ハ土地不便ナルノミナラズ、適当ノ家屋コレナキニ付、仮リニ脚折村ヘ役場開設致シ度段、別紙書面差出シ候処、右ハ先般、区画上申ノ際、上広谷村トナセシハ全ク筆者ノ誤リニテ、図面ニハ脚折村ト明記コレアリ、殊ニ適当ノ家屋モコレナキ義ナレバ、具状ノ通リ御許可相成リ度、別紙進達、此段副申候也。
   明治十七年八月二二日
                  埼玉県 入間 高麗 郡長鈴木敏行印
    埼玉県令吉田清英殿
    御指令ノ義ニ付伺
  高麗郡上広谷村聯合戸長役場仮設ノ義ニ付、別紙ノ通リ願イ出デ候処、右ハ事実已(ヤ)ムヲ得ザル義ニ付、左案ノ通リ御指令相成ルベキヤ、上伺候也。
    明治十七年八月二六日出
    百五十五号案
  書面ノ趣、聞キ届ケ候条、精々速(スミ)ヤカニ位置村ヘ設置候様(ヨウ)、取計ラウベキ事。
    明治十七年八月 日
          埼玉県令 吉田清英
             (県行政文書)
 このような経緯があって、上広谷村連合戸長役場は、脚折村六三番地町田浅次郎の所有する家屋を借り受けて設置されることになった。初代の連合戸長には、脚折村の田中佐平太が拝命したが、病気の故を以て辞任し、後任には、旧前橋藩士で、松山町の山川岩雄が赴任した。入間・高麗郡役所の収税係から戸長に選挙されたのであった。二人の略歴は左の通りである。
  准等   給等  拝命年月日   免職年月日  姓名
 准十六等 八等級 十七年七月十六日 同年八月九日 田中佐平太
 准十四等 六等級  同年八月十三日        山口岩雄
 准判任官七等   十九年十一月二日        同人
 同 六等     二十年十二月二一日昇      同人
                         (田中修家)
 山川岩雄は、明治二二年の村制施行まで戸長職にあった。なお、山川の戸長就任の辞令を左に記す。
      山川岩雄
  任埼玉県高麗郡上広谷村聯合戸長
  准十四等
  六等給支給之事
   右ハ郡書記奉職中 十五等相当ニ付官等ハ一級ヲ進メ 月給ハ元之通ニ可然ト詮議候也
   (八月十三日辞令郡役所ヘ廻送)(田中修家)
 ちなみに、山川が郡書記から戸長へ選挙せられた理由は、「当聯合部内ヨリ戸長ニ撰挙スベキ人物コレナキノミナラズ、該地方ニ於テモ其ノ人ナシ。依テ当郡書記ヨリ撰挙ス」ということであった。